平成key words


 平成時代の相撲界に起こった特徴的な事象をキーワードで振り返る。この30年間で何が変化したのか。振り返ってみよう。

 

力士の経歴

二世力士・兄弟力士

   昭和の時代までは、むしろ大成しないとまで言われていた名力士の子弟。サラブレッドと呼ばれた貴ノ花、親子大関増位山は特異な存在だった。

 だが、平成に入って彼ら「二世力士」が一気に台頭する。先陣を切ったのが井筒兄弟。父はもろ差し名人鶴ヶ嶺。三兄弟とも関取になり、平成元年には次男逆鉾、三男寺尾が同時に関脇を務め、同時三賞も記録した。そして貴ノ花の息子たちは、史上初めての親子優勝を果たし、決定戦も戦い、共に横綱に。「花田家」なくして昭和平成の相撲史は語れないほどの存在感を残した。同時期には関脇小城ノ花の息子、小城乃花、小城錦兄弟も活躍。2代目栃東も、親子優勝を果たし、父を超えて大関となった。親子新入幕三賞佐田の海も。かつては親族がいて甘えが出ると言われたりしたが、幼少期から相撲に親しむ環境にあるエリートが結果を出す時代になった。旭富士の甥にあたる安壮富士、安美錦兄弟、清国の甥にあたる玉ノ国、玉乃島と、兄弟関取も誕生した。

 2世力士でなくとも兄弟で同時に活躍する力士が急増した。近年では、千代丸と千代鳳という個性的な兄弟力士が。北桜と豊桜、ロシア出身の露鵬と白露山のように部屋が異なるケースもあった。

 令和には、貴公俊ら双子の兄弟関取、若隆景ら三兄弟とバラエティも富んだ兄弟力士の活躍も期待される。

学生相撲出身力士

 昭和の終わりから増えてきてはいたが、平成に入ってラッシュに。大学相撲で実績があれば幕下付け出し資格を得られ、即戦力となることから激しいスカウト合戦が繰り広げられた。

 二子山部屋や九重部屋など頑なに叩き上げにこだわる部屋もあったが、出羽海、春日野、三保ヶ関、立浪などが名門復活をかけて積極的に受け入れ。だが一番成果を挙げたのは、新興の武蔵川部屋。同時に3人の大学相撲出身大関を擁した。大学横綱、アマ横綱など直前のメジャー大会の優勝者に付出資格が限定されても、挑戦する力士は後を立たず。前々年の学生横綱などの実力者も多く、前相撲から取っても2年弱で入幕するスピード出世が続出。6場所制以降で1位の9場所で入幕した常幸龍がデビュー27連勝、土佐豊は30連勝など記録も生まれた。付出資格者は幕下10、15枚目格デビューとなり、ザンバラ髪の遠藤が3場所で入幕する新記録を作って、一躍人気力士に。28年に再度付出制度を見直し、三段目付出も設けられた。

 幕内における大学相撲出身者の割合は格段に増加した一方、遂に横綱は現れず、輪島が唯一の存在のまま(旭富士は近大中退で微妙な位置づけだが)。最大の大物とされた久島海が三役にも届かないなど停滞する力士も多く、一発勝負中心のアマ相撲で揉まれることの功罪も盛んに語られた。

   大学相撲出身力士が一大勢力を誇る一方、かつては大成しないとされた高校相撲出身者が躍進。栃東、琴奨菊、豪栄道、栃煌山、豊ノ島らが代表格で、大鵬の孫・納谷も高卒で入門した。さすがに高校生でアマ横綱は難しく、付出された例はないが、実力者なら20歳前後での入幕も狙え、大卒との時間差は大きいと考えて挑戦する者が増えている。朝青龍や照ノ富士など、日本の高校を経て文化に馴染んでから入門する海外留学経由も増えている。

   いずれにしても、中卒叩き上げ中心の中で異端的存在だった時代とは異なり、相撲経験者ほどアマチュアで実力を蓄えてから入門する流れができた。社会全体でも進学率が増加。大学のユニバーサル化が平成期を通して叫ばれたが、力士たちにもその影響は及び、高学歴化はプロ野球界以上に進んだ。

 

外国人力士

 平成を語る上で外せないのが外国勢の急増。平成元年は幕内に小錦1人だったが、今や幕内の3、4人に1人は外国人力士だ。昭和の終わりから南海龍、琴天太など期待されながら頓挫するケースも目立ち、定着には至らなかった。しかし先駆者高見山の弟子、曙が小錦に追いつき追い越し横綱へ。武蔵丸も続いた。巨体を武器にしたハワイ勢は存在感があったが、大成する力士は続かず、15年11月の武蔵丸、戦闘竜引退を以って途絶えた(のちに武蔵丸が部屋を興し、甥が入門)。

   代わって台頭したのがモンゴル勢。平成4年に大島部屋が6人を受け入れ。その中から旭鷲山が飛び出し、モンゴル相撲仕込みの奇抜な技を繰り出して人気に。同期の旭天鵬は対象的に地味な取り口ながら長身を活かした茫洋とした相撲で40歳まで幕内を保ち、帰化して友綱部屋を継いだ。彼らを凌駕し瞬く間に頂点に上り詰めたのが朝青龍。さらに白鵬が続き、モンゴル黄金時代を築いた。さらに日馬富士、鶴竜と横綱が誕生。外国勢で最も多くの関取を生んだモンゴルは、当初旭鷲山がイメージを作った俊敏な力士だけでなく、大関照ノ富士、逸ノ城のような大巨漢まで多様で、ホープが途切れる気配はない。

 中国、韓国からも幕内力士が出たが、モンゴル勢の成功を受けてスカウト網はユーラシア大陸を西進、東欧に達する。グルジア(ジョージア)出身の黒海が欧州勢初の幕内力士になり、世界選手権で優勝した阿覧など有望株も門を叩いた。ブルガリアの琴欧洲、エストニアの把瑠都、そしてジョージアの栃ノ心が大関に昇進した。彼らも巨躯ではあるが、ハワイ勢よりも筋肉質。足が長すぎて苦労するが、レスリング経験者が多く前傾姿勢は得意。さらにスカウトはアフリカ大陸にも及び、エジプト出身の大砂嵐が、ラマダンをしながら場所に臨んで話題になった。

 外国人力士が上位を占め、10年に渡って優勝を続けたことには常に批判的な論調がつきまとったが、屋台骨を支えたのは事実。不人気の主因とされたが、個性派が多くて20年代後半の人気回復にも貢献したと言える。ただ、トラブルも目立った。ロシア人力士3人が大麻問題で解雇、八百長事件では多くのモンゴル人力士が認定され任意引退。引退後に訴訟となるケースもあった。そして朝青龍、日馬富士の2横綱は暴力沙汰で詰め腹を切らされる形で土俵を去った。

 平成14年には、外国人力士は各部屋1人までと制限された。折からの独立ラッシュで一時部屋数が50を超えていたが、貴重な外国人枠を無駄にできないと、各部屋ともに厳選してスカウトするようになり、志望者が空き枠を待たされるケースも生じた。逸ノ城は高卒後、実業団横綱となってから入門した。

 国技として、日本人力士の割合が低すぎるのも問題だが、制度が貴重な人材の可能性を阻んでいる可能性もあり、今後も議論の余地がある。

制度

張出廃止

 平成6年に張出を廃止。役力士が同じ片屋に複数いても、番付表の枠内に並べられることになった。新弟子の急増で、ただでさえ虫眼鏡と呼ばれる下位力士の四股名がいよいよ書ききれないため、スペースを確保することが目的と言われる。 しかし両脇に張出があった方が、真四角の枠よりも味があって良いと思う。家だって多少凹凸がないと不恰好である。また、東の2番目の大関というより、張出と言った方がしっくりくる。今や力士の総数も落ち着いているので、新元号下では是非復活を願う。番付表上は無理でも、せめて「東の2人目の横綱」ではなく、張出横綱という呼び方だけでもさせてほしい。

 関脇、小結は東西に1人ずつという原則が徹底され出したのも、張出がなくなったことの心理的効果なのか。

定員増加

 平成に入り、2度関取の定数が増加している。平成3年に幕内が2名。平成16年には幕内、十両各2名が増加。この時は、公傷制度廃止とのトレードオフだった。

 八百長問題で大量に関取が引退したときは、経過措置で定数に満たない場所はあったが、翌場所には元の幕内42、十両28に戻り、今に至っている。

 力士給与は長く据え置かれたが、昭和40年代に時津風理事長が定数削減を断行したのに比べると、リストラの嵐が吹き荒れた時代にあって定数増加とは悠長だ。

 定員を急に増やすと極端な番付の運不運が生じるので、あまり動かすものではないが、絶対に上がる星なのに落ちる力士がいなくて上がれないケースなどでは臨時で定員を増やす措置もありうるのではないかと思える。

公傷廃止

 土俵上での負傷の場合、翌場所の全休については番付を維持される救済制度。昭和46年に設けられ、ビデオ判定と共にプロスポーツとしての先進性を評価される制度でもあったが、平成16年から廃止された。判で押したように「全治2か月」の診断書を提出して適用を受けている、また負傷後に強行出場すると適用されないことから安易な休場を助長しているという批判もあった。平成14年には10名を超える力士が休場する場所もあって幕内の取組がスカスカの場所も。15年に適用が厳格化。大関武双山の脱臼による休場が、古傷の再発とみなされて公傷適用外になった。そして翌年、ついに一律廃止となった。

 しかし、制度に甘える傾向はあったとはいえ、一律廃止とは、極限のダメージを覚悟でぶつかる力士にとって過酷すぎないか。公傷廃止と同時に定員の増加が行われたが、全休なら10枚以上落ちるのに、幕内十両で計2枚分増えたところで誤差分にしかならない。

 休場力士は減ったが、当然重傷を負った力士が長期離脱して幕下以下まで番付を落とすケースが増加。休んでも全敗でも一緒なら、と無理な出場を続けて目を背けたくなるような痛々しい負けを続けたり、あげく悪化させたりでは元も子もない。

 八百長問題時に復活が議論されたが実現せず。2度も大関に復活した栃東や、幕下下位に落ちてから復活して大関になった栃ノ心などの美談を生んだ一方、元大関把瑠都はわずか3場所の休場で幕下陥落が確実となり引退せざるを得なかった。無理を重ねて膝を悪化させた元大関照ノ富士も休めていれば、序二段陥落の憂き目に合わずに済んだように思えてならない。人気力士の遠藤や宇良にと、強行出場による悲劇は枚挙に暇がない。

 そもそも北の湖理事長が強行出場で一皮剥けたという個人的経験により、鶴の一声で廃止されたようなところもある。そろそろ再検討を望む。

門戸開放

体格基準緩和

 日大相撲部出身の舞の海は、頭頂部にシリコンを注入して身長を伸ばして強引に検査をパス。変幻自在の取り口で希代の人気力士となった。アマでも一定の実績があって活躍できる力士を一律に阻むのは、相撲界にとっても損失である。そこで第二検査が設けられ、173cm75kgに満たない力士でも、緩和された基準(167cm67kg)と体力検査を通れば入門できることになった。関脇豊ノ島がこの制度に救われて入門、高校相撲で鳴らした実力を発揮して早々に幕内で活躍した。その後第二検査の体格基準が標準の体格基準となった。小兵力士たちが結果を残して、後続の小兵にチャンスを与えた格好。素早い対応とまでは言えないが、協会の柔軟な対応は評価されよう。

年齢基準

 智乃花が27歳で入門。大学時代に実績はあったものの高校教師として就職していたが、同じ小兵の舞の海の活躍に刺激を受けて一念発起。幕下付出から一気に三役まで上り詰めた。しかし、その後入門時23歳未満(付出25歳未満)という年齢制限が設けられて、「センセイ」級のオールドルーキー再来はなくなった。ようやく29年に見直しが入り、相撲に限らず競技実績が認められれば25歳まで認められることとなった。柔道の金メダリストが転身、ということも可能ではある。この制度が生んだ名力士が生まれるか。いきなり令和最初の場所で、一山本(大学相撲経験あり)が新十両を決めている。

力士の特性

力士寿命と引き際

 

 平均体重が160キロにまで増え、消耗も激しくなっていそうだが、平均年齢は上昇。

 中卒で入門する力士が減り、学生相撲出身力士や外国人力士ら入門時年齢が高い力士が増えたこともあるが、実働年数も伸びている。トレーニング理論の進化など、前向きな理由による力士寿命の延伸は喜ばしいことだが、単純に身の引き方が潔くないという面も否定できない。

 かつては、大関経験者はもちろん、実績のある三役力士なら幕内から落ちる時点で引退することが多かったが、今はそういう力士は稀。名関脇の土佐ノ海、若の里も40歳手前まで十両で奮戦。若くして大関を陥落した雅山は、アクシデントによる転落で、大受以来の大関の十両での土俵に。この時は大勝して1場所復帰し例外扱いと思われたが、最晩年に転落した際も土俵に上がり、幕下陥落確実な成績まで相撲を取った。これを前例として把瑠都も十両に在位(全休し引退)、照ノ富士は十両で満足に相撲を取れず、長期離脱して序二段まで落ちたが復帰している。

 大関の地位で引退したのは、朝潮、北天佑、武双山、魁皇、栃東の5人だけ。昭和期には陥落後も取る方が珍しかったが、年齢に関わらず陥落しても取ることが当たり前になった。貴ノ浪が10枚目で連敗して引退したくらいで、それ以外は幕内陥落決定的となった場所を最後に。上記の雅山、把瑠都に現役の照ノ富士は十両以下に番付が載った。

 

 まだ取れる力士が辞めさせられるのは悲劇だが、一方で地位の重みも大切にしてほしいという声も多い。スポーツとしては力が落ちたら落ちた地位で取れば良いし、衰えと向き合いながら戦う姿も称賛されるべきものだが、伝統から言えばまだ取れる実力は自覚しつつも後輩に道を譲る潔さが讃えられてきた。

 高齢記録の更新には素直に拍手を送りつつ、長く留まることを良しとしない古風な力士の矜持も忘れずにおきたい。