横綱の引き際

 横綱の引き際は、いつも切ないものである。強豪の力士ほど全盛期の力が思いしのばれ、もう2度と見られないという寂しさに駆られる。

 それぞれの横綱にとっても、まだやりたいという執念と、最高位のプライド・威厳のジレンマに苦しむのだろう。

その中で、彼らはどのタイミングで決断したのか、検証してみる。

 

 下表のとおり、各力士とも直前1年には休場があり、ケガなどにより満足に土俵を務められなかったケースがほとんど。年の半分に当たる45休以上も少なくない。勝敗だけを見ても負け越している力士も少なくなく、突然引退した曙の充実がよく目立つ。

以下、各横綱力士の引退にいたる経過を具体的に取り上げる。

近年の横綱の引き際


武蔵丸 光洋

連続勝越記録更新の鉄人も、最晩年は休場続き

 頑丈が売りで北の湖の連続勝ち越し記録を更新した武蔵丸だが、最後の一年間は故障が長引いてほとんど休場。番付上5場所並び立った朝青龍とは、一度も横綱対決が実現しなかった。

 ただ、それほど引き際が悪いという評価にはなっていない。というのも、最後に皆勤した平成14年9月は、貴乃花との相星決戦を制してこの年3度目の優勝。つまり、引退前年には最強力士の座を保持していたのである。その場所、骨折をおして出場したツケが来て、左手首の手術に踏み切る。回復は順調ではなく、4場所連続全休。優勝後とはいえ、連続4場所全休は横綱として3人目。前年に貴乃花が7場所連続全休していたため、そこまで厳しい批判はなかったが、7月場所ぶっつけ本番で出場し、序盤3連敗して途中休場。さすがに次の場所は進退をかける場所とみなされた。

 1場所全休を挟み、11月場所。初日勝ったが連敗、ここが一つの決断時だったかもしれないが、相撲勘の問題と考えて調子が上がることに期待し、翌日も出場。7月に敗れている引導男・安美錦を退け光が差したのも束の間、玉乃島に逆転負け。再び引退危機。この負けは土俵際で詰めを誤ったものであり、身を引くには悔いが残る。翌日、実力者琴光喜を破って三度星を五分に戻した。が、7日目土佐ノ海の引っ掛けにあっさりと土俵を踏み出し、「立往生」となった。逆転負けとはいえ、さすがにこの調子では勝ち越しも厳しく、休場も許されない。引退はやむを得なかった。最終場所然り、歴代の横綱と比べてもしぶとく粘った方だと言える。しかし体力的にはまだまだ持ちそうであり、手首という一部の故障が全てを狂わせての引退は、実にもったいない印象も残った。

 ただ、実は入門前から抱えていた首の故障が根本の原因であったことがわかり、武蔵丸という力士のタフさが逆に浮き彫りとなったのは有名な話である。

 故障による長期休場が、相撲にも影響を及ぼして引退につながったケース。一方、首の状態の深刻さは語られていないが、向き直る動きの遅さはしばらく前から顕著になっており、それによっては限界という見方も出来る。

 優勝から7場所目追い込まれ度4、限界度3

貴乃花 光司

超人気横綱の壮絶な散り様 印象深い最後の活躍

 平成の相撲人気を支えた貴乃花の引退を巡っては、連日報道陣が徹夜で張り込む過熱ぶり。前年は1場所しか出場せず、2場所ぶりの出場となった引退場所、序盤で負傷休場。異例の再出場で復活を目指したが、連敗を喫し引退となった。自ら死に場所を求めるかのような散り様だった。

 20回目の賜杯以降、丸2年優勝から遠ざかった貴乃花は、相次ぐ故障を克服して13年1月復活優勝。3月は次点、5月は初日から13連勝して独走態勢だったが、14日目武双山戦で右膝を負傷。一人で歩けないほどのケガを負いながら、不可解にも千秋楽強行出場。仕切り直し中に外れた膝を入れ直すという悲壮な戦いだったが、決定戦では本割で一蹴された武蔵丸を上手投げに下して優勝してしまった。相手の武蔵丸への同情論、批判も興り、出場の決断に関しては大きな論争を巻き起こした。

 それはともかく、貴乃花の膝は予想以上の重傷で、渡仏して手術、リハビリに努めた。長期休場は致し方ないと考えられたが、横綱ワーストの5場所連続全休、さらに離脱が一年に及ぶと、さすがに批判の声が強くなった。毎場所直前になっての出場回避が続き、横審による勧告も示唆されるなか、14年9月、8場所ぶりの出場となった。膝は万全ではなく、序盤で2敗したときはもはやこれまで、と報道陣が部屋に大挙したが、奇跡の復活を遂げて12勝3敗。横綱相星決戦まで演じて驚かせた。しかし膝の状態は悪化、11月はまた全休。9月の頑張りだけでは7場所全休は帳消しとはいかず、15年1月も再び進退をかける場所となった。

 初日際どい逆転で星を拾い、2日目雅山戦。捨て身の二丁投げに肩から叩きつけられて負傷。相手も故障したとあって、取り直しの一番は制したが、肩は上がらない状態で、翌日から休場となった。これは不運な土俵上の怪我で、進退場所は猶予という流れのはずだった。ところが、突如5日目から再出場すると発表され、角界は揺れた。一度休んだ横綱が再出場するのは、昭和29年の東富士以来の異常事態。それも進退をかけた横綱がである。満身創痍ながら、立合いの変化も辞さず必死の連勝。まだ土俵上での黒星はない。しかしついに7日目、出島の押しに圧倒されて土(実質3敗目)。翌8日目も新鋭安美錦に翻弄されて送り出され、4勝3敗1休。一晩考えて、翌朝引退を発表した。

 まだ30歳。前年秋の復活劇があったばかりで、もう少しケガが回復すればまだまだやれるとの声も強く、力尽きての引退という感じはなかった。それだけに悔やまれるが、長期離脱は許されない相撲界の厳しさを改めて見せ付けられた大スターの引退だった。

 優勝から11場所、追い込まれ度3、限界度2

曙 太郎

 不振を乗り越え優勝したまま引退 年間最多勝翌場所全休後に

 曙の引退は13年1月千秋楽打ち出し後。まさに突然の出来事だった。古傷の膝が不調で全休したとは言え、その前の11月場所は全盛期にも負けず劣らず安定した内容で優勝、年間最多勝も獲得した。これ以上の怪我との戦いに臨む気力の限界を理由とした。しかし2年半後、これまた突然に部屋付親方から格闘家に転身、K-1での惨敗続きは相撲最強論者を大いに悩ませたが、プロレス界では成功した。

 優勝した次の場所に引退というのは、あまりにも綺麗過ぎる引き際だ。最後の一番が優勝決定の瞬間だったわけであり、通常の引退の苦しさとは大きく違う。ただ、曙の場合、怪我との戦いが長く続いて、不振による引退という危機も何度か迎えていた。6年に膝を手術した曙は、長期離脱を強いられて、その間に横綱となった貴乃花に覇者の地位を奪われる。優勝は新横綱の平成5年は4回したが、手術した6年に1回、7年に1回、1年空いて、9年に1回、2年空いて12年に2回。9年の優勝のときでさえ2年ぶりの復活だったわけで、そのあとまた長いブランク。この辺りが一番苦しかった。膝に加えて腰も痛め、2メートル200キロを越える巨体はボロボロ。相手の動きについていけない惨めな負け方が目立った。9年9月は9勝に終わり、翌場所全休。続く10年1月は序盤で3勝3敗となり、かなり危なかった。さらに3月も連敗スタート、この場所は13連勝で盛り返し、面目を保ったが、以降も序盤に星を落とすので安心して見ていられなかった。10年の終わりから11年にかけては3場所連続全休、再起をかけた5月はまた連敗スタートとなり、引退勧告寸前の騒ぎとなる。ここは乗り切ったが9月11月と休場に追い込まれ、いつ引退してもおかしくないような状況だった。

 ところが、12年に入り急に安定。1月のストレート勝ち越しをきっかけに、7月は13日目にあっさり3年ぶりの復活優勝を決める活躍。11月は5年ぶりの14勝を挙げてまた賜杯を抱いた。1年間安定した成績で皆勤し、実力で引退説を忘れさせた頃だっただけに引退発表には驚かされた。この場所14勝同士で横綱の貴乃花と武蔵丸が決定戦を戦うという好展開に、後は任せても大丈夫と安心したのだろうか。結果、貴武蔵横綱対立時代は、長期休場のために「絵に描いた餅」で終わってしまっただけに、格闘家になる元気があるなら、曙にもう一踏ん張りして欲しかったところである。一度は見たかった、曙ー朝青龍戦(朝青龍は13年の1月新入幕)。

 満身創痍ながら、まだ余力はあっての引退といえる。だが引退危機を乗り越えて、有終の美に持ち込んだ最後の1年間に価値がある。低迷した時期も、優勝こそ遠ざかっていたが、印象よりはいい成績を残しているので、そのまま引退してもさほど酷い評価はされなかっただろうが、最後に強いイメージを残したことは大きい。引き際の見事さが、横綱としての印象を大きく変えた好例である。

 優勝から1場所、追い込まれ度1、限界度2

若乃花 勝

限界超えた体で昇進 ついに気力の限界

    史上初の兄弟横綱を実現した若乃花。後に引退した弟・貴乃花同様、自ら死地に飛び込んだような最終場所だった。

 長い大関時代を経て、かなり体は痛んでいたが、平成10年春夏連覇で横綱昇進。すでに28歳。曙・武蔵丸などの強敵は巨漢揃い、小兵・技能横綱の寿命はそう長いものではないと、大方が予想した。さらに、一族の系譜にはなく、短命のジンクスがある不知火型の土俵入りを採用(二子山系では過去に隆の里がいるが)。晩年横綱の宿命を昇進時から覚悟していたようにも思える。10年は横綱初優勝は逃した(若貴絶縁騒動最中の秋、千秋楽まで貴乃花と争った)が、年間最多勝をものにした。11年1月、今度は離婚騒動でマスコミに追いかけられながら初日から勝ちっぱなし、1差で千秋楽を迎えたが、千代大海に逆転されて逃した。

    この後、若乃花は衰退の一途。体調が整わず、負けが込んで下半身の故障を再発、2場所続けて中盤途中休場。全休をはさみ、窮地に立たされた若乃花、9月は何とか立て直して3敗で10日目を迎えたが、闘牙戦で股割りの形に開いて押しつぶされ、また足の筋を故障。執念で同体取り直しを制して7勝目を挙げたが、深刻な状態。それでも意地になったように出場を続け、横審の事実上休場勧告にも構わず強行して奮闘したが、全く勝てず。千秋楽勝てば優勝の武蔵丸をまともに打っ棄ろうとするが重ね餅に潰された。15日制では2人目の横綱皆勤負け越し。引退かと思われたが、理事長の元に出向いて現役続行ということになった。横審から休場勧告を受け、2場所全休。もう1場所の休場が予定されていたが、12年春に進退を懸けて強行出場した。

 なにわのファンから手拍子が起きた(11年の出島コールあたりから始まった、手拍子という聞き慣れない場内の異常な盛り上がり方。最近珍しくなくなってきた)。初日、和歌乃山を技能相撲で肩透かしに下して薄氷の白星を挙げたが、2日目雅山の突き押しに力負け、3日目旭鷲山に動き負け。さすがに2つ負けが先行すると、進退場所では決断を迫られる。4日目、玉春日を前に攻めて星を五分に戻した。しかし、5日目。高校の後輩・技能派の位牌を継ぐ栃東におっつけ負け。完敗の内容だった。夜、引退を発表。

 20代での引退となったが、足の筋肉はまさにズタズタ。力士らしからぬ張り詰めた下半身が目立っていた横綱だけに、生命線の足腰をやられてはどうしようもなかった。治る故障でもない。体力はとっくに限界というのが本当のところだろう。「体力を補う気力の限界」という表現が、小兵横綱の意地を示していた。力士寿命の晩年に何とか横綱に辿り着いたタイプだけに、短命は仕方ない。せめて2度の優勝のチャンスをものにしていれば、もう少し横綱として高く評価されただろう。

 優勝から11場所(大関)、追い込まれ度5、限界度5

北勝海 信芳

世代交代の波 満身創痍で耐えきれず

    横綱最後の砦となったが、満身創痍の体で再起を断念。横綱が空位いう非常事態を生んだ引退劇。

 若くして大関、横綱に上がり、結果も残してきた北勝海。激しい押し相撲を武器とする相撲はダメージも大きく、昭和63年には3場所連続全休するなど足腰に不安があった。その後よく再起して優勝8回を記録。平成に入ってからは、故障の多い千代の富士よりも優勝争いで本命視されることが増えていた。平成元年、2年と2回ずつの優勝を飾り、平成3年は初場所千秋楽まで優勝を争い準優勝、春は14日目大乃国との直接対決を制して単独トップに躍り出る。しかし、この一番で左膝を負傷。相撲が取れない状態で千秋楽大乃国が勝てば決定戦は戦えないところだったが、幸運にも大乃国がすでに10敗の霧島に不覚、優勝を飾った。

 夏場所を休場するが、この場所で千代の富士が引退。翌場所復帰するが9勝に終わる。大乃国が引退、他の上位陣もピリっとせず平幕琴富士に13日目で優勝を決められ、千秋楽は旭富士と8勝6敗の相星対決という結びの一番で、千代の富士以後の土俵を支える横綱陣の実力の疑問符がついた。ただ、北勝海にとっては休場明けであり、横綱昇進後全休を除き2度目の一桁白星。さして責められることもなかったはずだが、時代が悪かった。翌場所休場を挟み、九州に再起を賭けるが前半で3敗し、膝のケガの悪化を理由に自身初の途中休場。本人は満身創痍の状態から引退を考えたようだが、もう一人の横綱旭富士の絶不振もあって辞めるに辞められない状況。1場所休んでいる間に先に旭富士が引退。一人横綱の重責まで背負うことになり、4年春場所強行出場するも初日から連敗し休場。まだ28歳、懸命に再起を目指すも限界は本人が一番自覚していた。翌夏場所直前という異例の時期に引退を発表した。

 横綱として安定した成績を残していたが、その時期に強い横綱が同部屋にいて、やっと主役を張ろうかという時期に故障。その苦しい時期に若手が台頭、ライバルでもあるが責任を共有できる横綱が消えていった不運。自ら引き際を決断できない状況になってしまったのは気の毒だ。若すぎる引退となったが、体力的には限界以上に取ったと言えるだろう。

 優勝から6場所 追い込まれ度4、限界度4

旭富士 正也

在位9場所 まさかの急落

    30歳で悲願の横綱に。遅咲きの花を咲かせ、横綱としても優勝を飾ったが、その直後突然の急降下でわずか在位9場所に終わった。やはり短命の不知火型。

 大関時代から年間最多勝を獲得するなど高い安定感を示し、何度も横綱に挑戦していた旭富士。しかし53連勝した千代の富士・北勝海の九重勢の前にあと一歩で優勝をさらわれてなかなか横綱に上がれず、平成2年に連覇し30歳にしてようやく昇進。全盛期を大関で過ごしてしまった感がある。24連勝を記録するなど毎場所優勝を争い横綱としての重責を全うしてきた旭富士、5場所目には遂に横綱としての初優勝を果たす。千代の富士が引退、北勝海と大乃国が休場して一人横綱の場所、14連勝の大関小錦を千秋楽逆転しての賜杯は、さすが横綱と讃えられるもの。千代の富士から第一人者の地位を受け継ぐ者としてこれ以上ないアピールができたはずだった。

 ところが、持病の膵臓炎が顔を出す。痛みで稽古不足に陥る。名古屋場所では黒星先行の展開で全勝の平幕琴富士にも完敗、13日目にようやく勝ち越して8勝7敗。翌場所も若花田の投げにひっくり返されるなどひどい負け方が続き序盤で途中休場。1場所休んで4年初場所に進退をかけたが、曙・安芸ノ島に地力負け、3日目若花田にまた投げられて引退を決意した。

 膵臓炎という他人にはわかりにくい病気を抱えて力が出せず、惨敗を重ねて限界論が強まり、在位9場所という短命で引退せざるを得なかったのは不運だった。不振はわずか4場所のことであり、大関時代にも5場所連続一桁しか勝てない時期を乗り越えて連続優勝を飾っている。時間をかけて治せば、或いはまだ力を発揮できたかもしれないが、北勝海同様復調までの間を支えてくれる横綱がいなかったことが不運だった。

 優勝から4場所、追い込まれ度3、限界度3

大乃国 康

負け越し、4場所連続全休からの復活途上で

    角聖常陸山と比べられた未完の大器。横綱史上最重量級、初めて200キロを超える体に綱を締めた巨漢横綱。期待されながらも大スランプに悩み、ようやく復調の兆しが見えかけたところで突然引退となった。

 昭和62年、大関で全勝優勝を飾ると勢いを駆って横綱を掴む。昇進直後は8勝、途中休場、続く63年春には1勝2敗と苦しくなったが、そこから盛り返して千秋楽、ライバル北勝海を逆転し横綱として初の優勝。同年九州では千代の富士の53連勝をストップさせて存在感を発揮した。だが優勝争いからは早々に脱落し、本格化の兆候は見えなかった。

 そのうち減量失敗や睡眠時無呼吸症候群で大乱調となり、平成元年秋は7勝8敗と15日制では横綱史上初の皆勤負け越しを喫した。進退伺の騒ぎとなったが慰留され、1場所休んで勝負をかけた2年初場所も8勝7敗、しかも千秋楽に足首を骨折してその後4場所連続の全休に追い込まれた。いよいよ進退極まった九州場所では千代の富士にも勝って10勝に乗せると、翌3年1月も10勝、そして3月は優勝を争うまでに回復した。14日目の横綱相星対決には敗れたが、勝った北勝海が負傷、千秋楽既に10敗と絶不調の大関霧島を破れば逆転優勝となるはずだったが、まさかの黒星。千載一遇の機会を逃すと、翌場所全休。そして真価が問われた名古屋場所、売り出し中の若貴には勝つが調子が上がらず4勝4敗となったところで突然引退した。

 優勝争い後の故障休場明けであり、進退のかかった場所という認識はされていなかったが、本人の中では、長い不振もあって十分に追い込まれた心境が続いていたのだろう。しかし、せっかく賜杯を争うまで復調してきていただけに、体力的には残された2横綱よりも限界まで余裕はあっただろう。最後の相手も上位キラーの安芸ノ島とあって敗戦のインパクトはそれほどでもなかったが、横綱としての相撲に限界を感じたようだ。前場所に天敵千代の富士が引退し、ようやく時代がやってくるかに思われたが...

 優勝から21場所、追い込まれ度3、限界度3

千代の富士 貢

世代交代悟り大横綱らしい引き際

 あまりにも有名な大横綱千代の富士の電撃引退。

 平成3年夏場所、初日にのちの平成の大横綱、18歳貴花田との初顔合わせに敗れる。

3日目にも貴闘力のとったりに転び、3日目で2敗となったのは、新横綱場所で途中休場した時以来(不戦敗含む)。同日夜、「体力の限界」を理由に引退した。

 昭和63年に53連勝を記録した千代の富士。翌平成元年は肩の脱臼、愛児の死と心身ともに苦しんだが、鮮やかに復活。秋には全勝を記録して通算勝利1位をマーク。

九州場所9連覇は1差で逃したが、2年初場所は独走で13日目に30回目の優勝を決めた。

 ここから苦戦が始まる。春は通算1000勝を記録したが、10勝どまり。旭富士との優勝争いに2場所続けて敗れ、秋は全休。59年に5場所優勝から遠ざかって以来のブランクが生じた。35歳にとってこれは不調ではなく衰えだという指摘がされるのは当然だった。

 ところが不死鳥とも言われる休場明けの強さを発揮。得意の九州で31回目の優勝を飾ってみせた。大鵬にあと1回と迫った平成3年は、初場所序盤で上腕の筋肉を痛めて休場。春も休んで夏場所で復帰となったが、その春場所で旋風を巻き起こしたのが貴花田。11連勝で優勝戦線を賑わし、一気に上位へ進出した。

 こう見ると、直近の皆勤場所は優勝し、怪我で2場所休んだだけだから、誰も進退をかけて出場してきたとは思っていない。序盤思わぬ躓きで優勝は厳しくても11勝くらいに落ち着くと予想するのが普通だろう。休んでいる間に台頭したのは貴花田だけではなく、曙ら楽しみな若手が揃っている。ウルフらしい動物的勘が引き際を悟らせたか。ある程度覚悟の上での出場だったかはわからない。

 その兆候はあったのか。2年春の10勝は横綱になってワーストタイ(3度目)。優勝した後も貪欲なウルフだが、2年初場所、九州とも優勝を決めてから土がついている。秋の休場も夏巡業で若手を鍛えていて故障したあたり、直近1年にはこれまでにない陰りが見える。対戦相手では、小錦に3連敗、両国にも短期間に3敗と押し相撲に苦戦している。それでも決定的な綻びは見せていなかった。

 大横綱だからこその自ら選んだ引き際とも言えるが、大鵬に並ぶV32は不可能だったのか。辞めていなかったら他の横綱同様、世代交代の波に呑まれていたのか。ミステリーを残してウルフは去った。

 優勝から3場所、追い込まれ度1、限界度2

平成の横綱の引き際

 平成の横綱の引退劇を振り返った。休場や不振でいよいよ辞めるしかなくなったのが武蔵丸、若乃花。負け方を見ると非常に厳しそうだが、時間を与えれば復調の余地もあったのではと思われるのが、北勝海、旭冨士。再出場して自ら死地に飛び込んだ貴乃花、最後まで力を発揮しつつ自ら引いた曙、千代の富士。判断が難しいのが大乃国で、優勝からは最も離れていたが、絶不調から立ち直りを見せつつの引退。実に様々である。

 最高位に在る者として、追い込まれて辞めるのは恥ずかしいという教えは、脈々と引き継がれる。負け越しなどもってのほか、8,9勝ではひどい成績と叩かれる。12勝してやっと務めを果たしたとの評価される。休むことは許されるが、それも何場所も続くと進退問題になる。長期休場明けは相撲勘が戻らず、序盤に金星を許すと大きく騒がれる。一度調子を崩すと戻すのは大変である。名横綱と讃えられる栃錦、大鵬、北の湖もそういう時期を経験している。

 横綱の面目を保って辞めるにはどういう引き際であれば潔いとされるか。最終場所はよほどの怪我か引退を決断するに足る敗戦があるはずだから、よほど大きく負け越さない限りは悪く評価はされないが、ずっと横綱らしからぬ成績が続いていると印象は悪い。惜しいと言われる力士に共通するのは、直前数場所(全休は飛ばして)に好成績のある場合である。

 直近の皆勤場所が優勝の千代の富士、曙は鮮やかな印象。相星決戦を戦って準優勝の貴乃花も、これがなければ7場所連続全休などで限界まで粘った末の引退と見なされただろう。大乃国が判断しづらいというのも、ひどい不成績や休場が1年続いていても、1場所全休前が準優勝だからだ。他の横綱も、優勝または準優勝が約1年(7場所)以内にあり、逆にそれ以上長い期間優勝争いから遠ざかることは印象が悪く、これがひとつの辞め時なのかもしれない。

 「桜の花の散るが如く」去っていくのが横綱という美学が語り継がれる。その理想には届かなくとも、まだらに萎れながらも最後にもうひと花咲かせて散っているあたりが、現代にも引き継がれる横綱の矜持なのかもしれない。