横綱の時代

 長い歴史の中で68人しかいない横綱。昭和63年間で31人、平成18年間で6人。2年に1人から、3年に1人と、誕生率は近年低下。
 力量抜群の貴重な存在で日下開山とも呼ばれ、天下に1人しかいないようだが、初期から複数の横綱力士が並び立つのは珍しくなかった。

    最強とされる地位にある力士の数は、そのまま当時の勢力図である。ここでは、横綱の人数ごとに主な例を取り上げて、横綱の人数による展開の違いを振り返る。その番付が相撲人生に与えた影響など、意外な仮説が浮かび上がった。

横綱空位時代

   「横綱」は、もともと大関のなかでも特に品格力量抜群の力士に与えられる称号であって、地位ではなかった。明治になって初めて番付面に「横綱」と記載され、事実上大関の上に君臨する最高位として定着した。大関と違い、必ず存在しなければならないという決まりはなく、0横綱、つまり横綱が空位となった時代もある。


①平成の空位時代 平成4年5月(7月)~平成5年1月(北勝海引退から曙昇進まで)

 ※()は番付上の該当期間。

 まだ記憶に新しい、平成の大空位時代。一人横綱の北勝海が5月場所直前に引退発表、翌場所から番付に「横綱」の文字が消えた。番付上は4場所、実際は5場所の間横綱不在となった。そのわずか1年前、平成3年5月には4横綱の豪華番付だったが、同場所の千代の富士引退後、世代交代の嵐をまともに受けて、あっという間に一人もいなくなってしまったのである。若手の台頭による下位での世代交代は前年から始まっていたが、十年横綱・千代の富士が5月にスッパリ引退。この場所は昇進5場所目の旭富士が横綱として初めて制し、新たな主役争いの先陣を取ったように見えた。翌7月場所、不調の大乃国が引退。3月は久々に優勝を争っていただけに、意外だった。残された2横綱に期待がかかるところだが、この2横綱の唯一の決戦は、8勝6敗の相星決戦という体たらく。しかも平幕優勝を許しては、上位陣の面目丸つぶれだった。年齢的にはまだいけると思われた2横綱だが、翌場所から片方が全休して出場した方は途中休場という場所が3場所続き、1月で旭富士引退。在位わずか9場所だった。3月に北勝海が進退をかけて出るが、連敗して休場。すでに覚悟を決めたようだが、横綱が自分しかいないとあっては簡単には辞められず。5月に全てを懸けようとしたが、気力戻らず引退のやむなきに至った。
 空位の穴を埋めるのは当然大関陣。前年から小錦と霧島の2人が争っていた。4年3月の小錦は、13勝優勝ー12勝(第3位)ー13勝優勝で、横綱に上げても良かったが見送り。当時まだ外人横綱がいなかったことから、外国人差別問題が巻き起こった。小錦が昇進していれば北勝海の寿命も少し延びたかもしれないが...。霧島は高齢で肘の不調で衰え始め、11月の故障休場で大関陥落となった。4年1月に最年少優勝した貴花田は大関取りにもたつき、5月場所で初優勝した曙は新大関場所休場するなど、なかなか次の横綱は現れないかに思われた。

   しかし、曙があっさりと抜け出した。突き押しに磨きをかけ右四つの相撲も成長、安定感を増した2メートルの巨漢は、4年11月・5年1月と14勝1敗を続け、文句なしの成績で横綱に昇進した。以降外国人横綱の系譜は途絶えたことがない。和製横綱の空白は、北勝海引退から7年1月の貴乃花まで2年半15場所あったが、貴乃花引退後はこれを優に抜いて13年もの空白期間が生まれた。ともかく事実上1年半、番付上4場所あった平成の横綱空位時代は曙が幕を下ろし、戦国時代は収束していった。世代交代が急速に進んだ結果として、襷をつなぐまで横綱が持たなかったために起きた空位の時代。実際、文句なしに横綱の力を持つと言える力士は、前後2年ほど存在しなかった。

②昭和の空位時代 昭和6年夏~7年10月(宮城山引退から玉錦昇進まで)

 昭和の初めもなかなか横綱が現れなかった。昭和2年の東西協会合併で、江戸の2横綱に大阪の宮城山が加わって3横綱が君臨した。後の理事長・常ノ花が最強で計10回の優勝を飾った。西ノ海は休場続きで早々に引退、大阪相撲の名誉をかけて宮城山も合併場所を制すなど頑張ったが、かなり苦しい成績。常ノ花も抜群の安定感を誇ったわけでもなく、5年10月を最後に引退してしまった。残された宮城山に一人横綱を続ける実力は残っていなかったが、辞めるに辞められず、皆勤負け越しも記録してしまった。6年3月ついに引退。

 大関陣では、若き玉錦がいつ横綱になってもおかしくない好成績を続けていたが、「品格」の点がマイナスだったようで、さっぱり免許されない。常陸岩は引退、再大関能代潟も勝ち越しがやっと。30代後半の名人・大ノ里も衰えて2場所連続負け越し。番付の決め方などは現在と大きく異なるから簡単に比較は出来ないが、玉錦は3場所優勝の成績でも横綱の声はかからなかった。7年、春秋園事件勃発。大多数の力士が抜けていく相撲協会最大の危機だったが、玉錦は全く動かず。これが評価されたのかどうかはわからないが、7年暮れにやっと横綱になった。

 東西合併、春秋園事件と相撲界大激動の時期。横綱を張るには最悪の時期だけに、いつ誰が出奔するかわからないような状態では、横綱推薦どころでなかったかもしれない。玉錦など実力者はいても、混乱を極めた土俵を沈める大きな存在が不在だった。「別席」扱いの男女ノ川が優勝したり、奉納相撲では、引退してかなり経った元横綱栃木山の春日野が優勝したというほど、実力的にも飛び抜けた存在のいない時代だった。

1横綱時代

 タイプにもよるが、一人横綱には向き不向きがあると言える。普通は強敵がいないと有利になりそうだが、横綱というのは単なるチャンピオンではない。堅苦しい行事も多いし私生活の注目も浴び続ける、その中で品格を厳しく問われる。その独特の重みを分け合うライバルは、非常にありがたいものだと経験者は語る。

 ライバルを失って大失速した北の富士と、一人横綱の状況を追い風にした朝青龍。かたや休場中にハワイでサーフィン、こなたモンゴルでサッカー。不眠症・高血圧で休場に、解離性障害で帰国。かばい手で勝った横綱とぶら下がりで勝った横綱。似たもの同士(というと怒られるだろうが)ではあるが、一人横綱時代に関しては好対照な2人の横綱だ。破天荒な行動はプレッシャーの裏返しか。
 これまでの大横綱も同時代に(強い弱いは別にして)他の横綱がいて、彼らと争う中で優勝を重ねてきた。彼らがいなければもっと優勝できたか、というとそうではないだろう。大鵬に対する柏戸、北の湖に対する輪島、貴乃花に対する曙。ライバルの引退後にめっきり優勝が減っている。

 また、晩年期に好敵手を迎えることで一概に引退に追い込まれるとも言えない。衰え始めた時、そこで気力を振り絞れるかどうかは、ライバルの存在が鍵になる。大鵬も北玉の台頭がなければ膝の故障に耐えて最後の一花を咲かせられなかっただろうし、北の湖もその後千代の富士らの台頭がなければ長期休場後の復活優勝はできずに終わっていただろう。貴乃花には立ちはだかる武蔵丸がいてこそ膝のケガと戦えたし、そもそも1人横綱では7場所も休場できなかっただろう。
 そもそも横綱がただ一人だけ存在することがまれなので経験者は少ないが、朝青龍くらいこの状況を追い風に出来た力士はいないと思われる。千代の富士も一人横綱として孤高の立場に耐えられたように思うが、次々と人は変われど他の横綱がいたことで負担が軽減されただろう。故障持ちの曙や武蔵丸がダメージを受けたように、一人横綱の精神的・肉体的な負担は想像を絶する。北の湖、隆の里ら同世代の強豪が去り、30歳にして初めて一人で横綱を張った千代の富士も、そのままでは長くは持たなかったのではないか。実際その後休場は少なくなかったが、その間を埋める力士がいなければ精神的に休めず、お得意の休場明け優勝は難しかっただろう。穴を埋めた横綱の最先鋒・北勝海を自ら育てたところが千代の富士の凄いところ。

 朝青龍も、貴乃花や武蔵丸がもう少し長く綱を張っていれば生きた見本として行動を見習うこともできただろうし、弱くても他の横綱がいれば精神的にももう少し安定しただろう。一人横綱が解消してさらに大荒れになったのも、虚勢を張りつつ一人横綱に適応していた分、2横綱になったことで白鵬に牙城を崩される焦りを生み、却って精神面を揺さぶったからかもしれない。

(22.02.06初稿、29.6.29改訂)

①平成15年11月(16年1月)~平成19年5月(朝青龍) 

 朝青龍の一人横綱は21場所に及び史上最長。このモンゴル人横綱を外しては一人横綱時代は語れない。21場所ということになっているが、事実上はそれ以前、昇進時からずっと一人横綱であった。15年1月場所後に横綱に昇進したが、この場所中に貴乃花が引退。もう一人の横綱武蔵丸も休場続きで全く働けず、同年11月に引退してしまったからだ。その間、横綱として15年2回、16年5回、17年は6場所完全制覇、18年4回、そして19年の1月と優勝し、まさに無敵の黄金時代を築いた。26場所の間わずか8場所しか賜杯を離さず、2場所続けて優勝を逃すことはなかった。平成以降2場所連続優勝した大関しか横綱になっていなかったから、その間に優勝した千代大海、栃東、魁皇、白鵬もみな横綱昇進を阻まれた。19年3月に朝青龍との決定戦を制し、続く5月を全勝優勝した白鵬がやっと横綱に昇進。初めて2場所連続で優勝を逃したこの場所で、朝青龍一人横綱時代に終止符が打たれた。

 当時の朝青龍は抜群の実力で、仮に他の大関が横綱になっていても明らかにアンバランスだっただろうから、名実ともに一人横綱に相応しいものだった。その間、16年11月の魁皇が13勝優勝後の12勝準優勝、18年7月の白鵬が14勝優勝後の13勝準優勝(どちらも千秋楽朝青龍に勝つ)で惜しくも見送られている。厳しすぎると悪評高い平成以後の昇進基準であるが、結果的には見送った結果の番付は嘘をつかなかった。魁皇と白鵬はその後不振に陥り、朝青龍が連覇を果たす。今になって思えば、審判部もよく見ているなと感心させられる(もちろん上げて入れば結果は違ったかもしれないが)。

 

②昭和46年11月~昭和48年1月(北の富士)

 北の富士は当時最も長い大関在位場所数を経て、ライバル玉の海と同時に横綱昇進。ムラはあったものの大鵬との3横綱時代を経て、北玉2横綱時代を築きつつあった。46年には3場所連続で2人が入れ替わりに全勝優勝を果たし、人気実力共に備えた名横綱に成長していくと期待されていた。しかし、北の富士が全勝を決めた秋場所千秋楽が、玉の海との最後の戦いになった。10月、玉の海が急死したのである。

 急遽一人横綱となった北の富士は、この秋巡業では玉の海の綱を締めて不知火型の土俵入りを披露するなどしていたが、まさに一人二役の重圧を背負うことになった。九州場所は独走で13日目に連続優勝を決め、その重責を全う。この場所4大関は誰も二桁勝てず。前の山以外は29歳の北の富士より年上と伸びしろは期待できない。輪島や貴ノ花、三重ノ海など若手はまだ三役あたり。しばらくは名実ともに北の富士が一人横綱で安泰と思われた。

 ところが、年が明けると事態は急変。取組編成改革で初日から大関戦が組まれるなどの不利はあったが、いきなりカド番の琴櫻に星を落とすと、貴ノ花の打っ棄りに手を付いて大揉め。つき手かばい手論争で立行司が引退に追い込まれるなど事態は混乱、騒がれる中で立て続けに星を落とし、7勝7敗1休のひどい成績。それでも終盤まで優勝争いに残っていたのだから、とんでもない場所だった。11勝4敗、史上最低の成績で平幕栃東が優勝した。2大関は休場、清国・琴櫻は千秋楽まで自力優勝の可能性があったが10勝と9勝に終わる。春も北の富士は9勝どまり、大関陣も3人が10勝で、前の山は琴櫻戦が無気力相撲とされ自主的に休場、大関陥落に追い込まれる後味の悪い事件があった(いまだ真相は謎)。この場所も関脇と平幕が決定戦を戦う荒れっぷり。夏場所北の富士は途中休場、前場所の長谷川に続いて関脇の輪島が初優勝。北の富士は名古屋場所を全休、平幕高見山が関脇貴ノ花を振り切って優勝。関脇は強いのだが、大関はボロボロ。秋場所は、復帰した北の富士がまさかの全勝優勝。この年、全くいいところがなくバッシングの嵐だったが、ようやく横綱の意地を見せた。

 一方、同場所で貴輪が同時に大関昇進。古参揃いの上位陣に話題性抜群の若い大関が登場、「貴輪時代」到来と、人気回復へ大きな期待が寄せられた。

 九州は立ち直った一人横綱と五大関、この年の優勝者3人、決定戦進出者1人が前頭筆頭までに収まるサバイバル戦。例によって前半から上位同士が当たって潰し合い、抜け出したのは大関を守るのに精一杯だったベテラン大関・琴櫻。北の富士は10勝どまり。結局この1年は史上稀に見る戦国時代で、6場所とも優勝力士が変わり、年間最多勝は3年連続の北の富士に代わり、輪島が63勝(平均10.5勝)ながら手中にした。一人横綱が大不振に陥ったうえ、穴を埋めるべき大関の不在で良く言えば白熱した、悪く言えば締まらない一年だった。

 48年もしばらく混乱は収まりそうもなく、貴輪ら若手の台頭待ちという見方だったが、大方の予想を覆して32歳の大関琴櫻が1横綱4大関をすべて倒して14勝1敗で連続優勝。北の富士を越える史上最も長い大関在位の末に横綱昇進を果たすこととなり、意外な形で北の富士の一人横綱は終わった。

 ついに壁を超えられたという感じだった朝青龍の場合と違って、北の富士はむしろ救われたと言えるだろう。この場所も10勝どまりで、一人横綱を続けさせるのは厳しい状況だった。やっと重圧から逃れられた北の富士は、2横綱となった春場所、輪島を蹴散らして10回目の優勝を飾っている。強敵不在とはいえ、北の富士にとっては大迷惑でしかない一人横綱時代だった。

 

③平成5年3月~平成6年11月(曙)

 2年近く一人で綱を張ったのが外国人初の横綱・曙。当時は横綱不在で、名実ともに最初から一人横綱。まだ外国人を横綱にしていいのかという声もあった中で、しかも見本にする横綱もいない状態ながら、よく頑張ったと言える。綱の重圧のほか、日本中が熱狂的に応援する若貴兄弟の最大の敵としてヒール扱いされる環境だった。朝青龍とは比べ物にならない立派な精神力だったと今頃になって思う。
 5年1月に貴花田を下して連続優勝、横綱昇進。3月の新横綱場所は10勝どまり、5月も貴ノ花に千秋楽決戦で敗れたが、3場所目となる名古屋では若貴との巴戦を圧勝、横綱として初優勝すると、そこから3連覇。荒れた戦国大相撲の天下を統一した。6年1月は逸するも、3月は貴ノ浪、貴闘力との巴戦を制す。5月も首位を走っていたが、貴闘力に敗れると突如休場。痛みをおして出場していた膝の故障が悪化したのである。休めない一人横綱の宿命、負担が膝の故障となって現れた。一大決心してメスを入れた曙。長期休場を余儀なくされる。その間に武蔵丸、貴ノ花が全勝優勝、焦りの中でリハビリに努め、九州場所で復帰。本調子が戻らず10勝に終わるが、全勝で横綱を決めた貴乃花との対戦は、故障明けとは思えない粘りで大熱戦を演じ、敗れはしたが復活を印象づけた。そしてこれが一人横綱として最後の取組となる。

 一人横綱としての曙は、11場所で優勝4回。その間大関貴ノ花が5回だから、休場を差し引いても独走ではなく二強時代と言えるが、やはり3連覇の印象が強い。その後、番付上2横綱となってからは黄金時代を迎えた貴乃花の脇役に甘んじたが、貴乃花がいなければ休場や不振がもっと目立ち、12年の復活劇まで持たなかっただろう。

 

④昭和61年1月(3月)~昭和61年7月(千代の富士)

 千代の富士が一人横綱となったのは横綱6年目。北の湖、若乃花といった先輩横綱、そして隆の里と年上の横綱と並立し、苦戦もしながら実力一番手を保ってきた。北の湖が引退、隆の里も休場続きとなった60年には事実上一人横綱になっており、年4回優勝、年80勝の大台をクリアした。61年1月に隆の里が引退して番付上も一人横綱となったのは約半年だけだったが、その後も他の横綱を圧倒しており実力的に一強の印象が強かったため、取り上げた。

 1月は大関大乃国を終盤逆転して優勝、3月は途中休場して横綱不在の事態を招いたが、5月は大関北尾と並走し相星決戦を制す。7月も北尾との争い、関脇保志の援護射撃で1差、千秋楽の直接対決で全勝を阻まれたが決定戦を制して優勝した。北尾は2場所連続で優勝にあと一歩と迫ったこと、全勝千代の富士との本割に勝ったことが評価されて横綱双羽黒誕生となる。これで千代の富士の一人横綱時代は終わるが、その後も連覇を5まで伸ばした千代の富士の存在感は孤高の横綱といった域に達していた。
 双羽黒は横綱になって3度優勝を争うもいずれも競り負け、結局不祥事で廃業。その後北勝海、大乃国が昇進するも千代の富士の王座は揺るがなかった。この3横綱とも連続優勝はなく、現在の昇進基準に照らすと、優勝8回の北勝海ですら横綱昇進の声がかからなかったのではという疑念がある。それほど連覇というのは難しいが、若い彼らにはもう少し大関として伸び伸び取らせた方が力を出し切れたのではという気もしてならない。千代の富士の一強という勢力図を番付が反映しなかったことがもたらした悲劇。そういう見方をした結果が、平成以後の昇進厳格化につなかったのではないかと思う。

 

⑤昭和44年7月(9月)~昭和45年1月(大鵬)

 大鵬も短期間ながら一人横綱を経験している。若乃花と朝潮がいた時代に柏戸と同時昇進。後に栃ノ海、佐田の山が上がったが王座は譲らず、二人は先に引退。44年7月柏戸も退いて一人横綱となる。すでに30回の優勝を記録していた大鵬は、同年3月まで45連勝を記録しており、まだバリバリ。しかし、連勝の疲れが出たかやや不調。この場所も千秋楽相星決戦で新大関清国に優勝をさらわれた。北玉も停滞期で、琴櫻も故障がち。新大関優勝の清国や関脇長谷川に勢いがあった。番付上も大鵬の一人横綱となった秋、九州、45年初場所は、北玉が復調して優勝を争い同時に横綱昇進。大鵬は九州場所で故障し連続休場、鬼の居ぬ間に柏鵬時代から北玉時代へのバトンタッチが行われた。その後大鵬が踏ん張って北玉時代到来に待ったをかけ、3横綱の鼎立となるのだが、それは「3横綱時代」で。

 1横綱の4場所間、大横綱大鵬は11勝、11勝、途中休場、全休と優勝なし。宿命ライバル柏戸の存在の大きさが浮き彫りとなった。実質大鵬時代であっても、柏鵬時代の看板は伊達ではなかったと言える。その後復調しているからたまたまこの4場所が不調期だったという解釈もできるが、無敵の大横綱大鵬にしても一人横綱の重圧はなかなかの強敵だったと見える。遂に訪れた名実共に大鵬1強時代に、皮肉にも北玉時代の幕が開けることとなった。


⑥平成15年1月(武蔵丸) ※番付上1人横綱となった場所はなし

 最後に最も不運な一人横綱。番付上は1場所もなく、実際に一人横綱だったのもわずか6日間だけだが、貴乃花休場の間は実質的に一人横綱を務めた。琴櫻と並ぶ長い大関在位の後、平成11年に横綱昇進した武蔵丸は、他の3横綱が不調の間第一人者として活躍。12年は1回の優勝にとどまったが、実力は一番上と見られていた。13年初場所で曙が引退。貴乃花との2横綱時代が到来と思われた矢先に、膝の故障で貴乃花が長期休場となる。ケガをおして決定戦に出た貴乃花に敗れた武蔵丸。ボロカスに叩かれたがリベンジしようにも相手が7場所全休で、ぶつけるところがない。

 13年7月、11月と優勝した武蔵丸。14年1月こそ手首の故障が悪化して初の休場、史上最長の連続勝ち越しが止まったものの、3月5月と連覇を果たす。一人横綱の7場所で優勝4回と上々の出来だった。

 ようやく迎えた秋場所では貴乃花との相星決戦で破って優勝、待ちに待った雪辱を果たした。だが、念願成就して燃え尽きたか、それとも一人横綱の疲れが出たか、九州場所から手首の故障と首の悪化で休場続き。その間に貴乃花が引退でするが、入れ替わりに朝青龍が昇進し番付上は2横綱が維持された。だが武蔵丸も長期休場となり、名古屋、九州で出場するも勘は戻らず引退となった。一人横綱の重責は果たしたが、故障を抱えたまま誰にも黙って出場していた無理も祟って力士生命を縮めてしまった。大関時代にさんざん優勝をさらわれ、横綱になって地力は逆転しても、最後まで貴乃花に振り回された相撲人生だった。 

2横綱時代

 さんざん語られている2横綱の時代については、詳細を紹介する必要はないだろう。完全に二強の時代でも、意外と他にも横綱がいたりして、勢力図を番付が表せていないことも多い。その意味では、輪湖、曙貴各時代の2横綱だけが在位した期間の長さは稀有。どちらも王者不在の時代を勝ち抜いて最高位に君臨。2横綱となった時点で先輩横綱だったことが共通している。そして2人で荒れた天下を平定し、他の追随を許さなかったことから長期の2横綱時代となった。

 二度コンビを組んだ柏鵬も長さの点では凄い。若くしての同時昇進から30歳過ぎまで横綱を務めたため、後続の年長2横綱が先に引退してしまった。3連続全勝の北玉も密度は満点。貴乃花・武蔵丸も休場がほとんどだったが、揃った場所では激しい迫り合いを展開した。このあたりは番付とリンクした2横綱時代。

    一方、印象と違うのは、2横綱並立はわずか1場所しかなかった栃若時代。横綱の多い時代だったこと、年齢差と栃錦の潔い引退という原因がある。

    惜しいのは、朝青龍・白鵬の2横綱時代。大関との差は歴然としており、実力と番付が一致、キャラクターも好対照で、これぞ2横綱時代という様相。劣勢だった朝青龍が22年初場所を制し、さあこれからというところ、土俵外の事件で終止符が打たれてしまった。輪湖、曙貴に迫る長期間を記録してもおかしくなかった。案の定、年間86勝の白鵬と2強を形成する力士はすぐには出て来ず、24年まで白鵬の1人横綱が続いた。

①平成7年1月~平成10年5月(曙・貴乃花) 

 記憶に新しい平成の2横綱時代。貴乃花の昇進後3年半も続いたが、若乃花との兄弟横綱誕生で幕。両者よく優勝を争うも、貴乃花が優勢で黄金時代を作る。曙は故障がちとなり、この間優勝わずか2度。大きな差がついた。

 

②昭和49年9月~昭和53年5月(輪島・北の湖) 

 逆転優勝を許した屈辱を抱きつつ北の湖が昇進、幕が開いた輪湖時代。ちょうど古参2横綱が引退した場所であり、当初から2横綱対立の番付となった。輪島に波があり、51、52年は高いレベルで拮抗するも、53年は若い北の湖が独走。この年、輪島に代わって対抗馬一番手となった二代目若乃花が横綱となるまで4年近く続いた。

 

③昭和34年1月(3月)~昭和34年3月(栃錦・若乃花) 

 「栃若」という言葉ははやるも、両雄が最高位を占めた番付はわずか1場所。ただ、引退間近の千代の山、不安定だった朝潮との3横綱が長く、33年から35年まで2強の印象が強い。太く短い栃若時代を象徴する。

 

④昭和37年5月(7月)~昭和39年1月、43年5月~44年7月(柏戸・大鵬) 

 若くして昇進した柏鵬は揃って長く在位。その間を、栃ノ海、佐田の山の2横綱が駆け抜けて行った。そのため4年あまりのブランクを経て2度めの2横綱結成。前期は大鵬が全盛で6連覇含む圧倒的な成績。柏戸はケガに泣く。後期は両者ともケガを抱えて、乱調もあったが、大鵬は45連勝を記録している。柏戸の引退で終結。

 

⑤昭和15年春~昭和16年夏(男女ノ川・双葉山) 

 武藏山の引退後、羽黒山昇進まで2年ほど。戦時色の強い時代、2人で中国戦線を慰問するなど土俵外でも忙しかった。双葉山の圧勝、横綱同士では長く最長だった6連勝を記録。

 

⑥昭和60年1月(3月)~昭和61年1月(千代の富士・隆の里) 

 様々な横綱と並んだ千代の富士。最大のライバルはやはり隆の里。北の湖引退以後2横綱となるも、隆の里はすでに虫の息で、1場所しか皆勤できずに引退した。千代の富士は第2期全盛を迎えるが、かつて4場所連続楽日相星決戦を戦った両者の優勝争いは見られなかった。

 

⑦昭和46年5月(7月)~昭和46年9月(玉の海・北の富士) 

 短く散った北玉時代。大鵬が去ってようやく本格的に開幕した彼らの時代は、玉の海急逝でわずか3場所にして終焉。全ていずれかの全勝優勝という黄金の3場所だった。


⑧平成19年7月~平成22年1月(朝青龍・白鵬) 

 モンゴル人横綱による競演。21場所一人横綱を守った朝青龍に白鵬がようやく追いつき、逆転の勢い。朝青龍が粘って待ったをかけ、二強時代となった。土俵上で決着後ににらみ合いになったのは汚点もあるが、両者の負けん気を物語る。本割では白鵬が対横綱戦新記録の7連勝。21年には年間86勝4敗の伝説的記録を作る一方、朝青龍は故障がちで乱調も度々。既に白鵬時代が始まっていたと見ることもできるが、勝負どころで朝青龍も執念を見せ、相星決戦1勝1敗、決定戦では2戦2勝(通算3勝1敗)。優勝回数では食らいついた。最後は朝青龍が優勝して「勝ち逃げ」したが、この場所最後の一戦に勝った白鵬は、これを起点に63連勝を記録する。

3横綱時代

 諸葛孔明の天下三分の計で言えば、天下に3つの勢力が割拠すれば、強者を残る2者が連携して牽制しようとする動きが生まれ、バランスが保たれやすくなる。しかし、常に1対1の勝負である角界では弱い2人が連携することはできないので、どうして3横綱の間に序列が出来る。3人が3人とも強いという正三角形の時代は稀で、絶対的な扇の要がいて2人がフォローに回る形か、2強の下に一人がやや遅れを取った扇を返した形になることが多い。それでも、仮にも横綱。3人もいると完全な独走にはなりにくい。そして大関以下に優勝を譲ることも少なくなる。相乗効果で、優勝争いのレベルも維持できるようだ。横綱昇進のハードルが高くなった平成の土俵では、3横綱が鼎立することは珍しく、平成初期の他には、千代の富士引退後の1場所、若乃花の昇進後と引退後の計2年ほどだけ。どれも過渡期にあたる時期で、印象に残る三つ巴の争いは少ない。

    白鵬が長く続けていればいつかそんな日も来るだろうかと考えていたが、日馬富士、鶴竜の昇進でモンゴル3横綱という時代がやってきた。

①昭和45年3月~昭和46年5月(大鵬、玉の海、北の富士) 

 最初に挙げたのは、この3横綱の時代。長く王座を守ってきた29歳の横綱に、良きライバルとして同時昇進を果たした26,7歳の青年横綱2人という組み合わせも面白いが、短いながらも予想以上に白熱した三つ巴の争いが繰り広げられた。「北玉」が13勝2敗で決定戦を戦い、同時昇進した45年1月、一人横綱大鵬は全休。一人横綱の章で記述したように、「柏鵬」と謳われたライバルの柏戸が引退してからの4場所間、優勝30回の大鵬は沈黙していた。柏鵬から北玉へ時代は動いたと世代交代が叫ばれた。 

 ところが、いきなり休場明けの大横綱は蘇った。全勝の玉の海を1差で大鵬と北の富士が追うハイレベルな優勝争いとなり、決着は残り3日間の直接対決に預けられた。千秋楽の結びしか横綱決戦が見られない2横綱時代と違い、3日間頂上決戦が繰り広げられて最終盤に次々優勝争いの展開が変わる、これぞ3横綱時代の醍醐味である。13日目大鵬が玉の海を引きずり下ろして3者並ぶ。14日目、1敗対決は大鵬が北の富士を逆転で下し、玉の海と並んで千秋楽へ。先に大鵬が大関清国を倒して勝ち残りで見上げる結びの一番、優勝の可能性が消えた北の富士が意地を見せて玉の海2敗。2横綱を連覇した大鵬の31回目の優勝が決まった。翌場所は北の富士が14連勝で優勝。13日目の1敗玉の海戦を勝って大勢を決した。玉の海はこの場所も2横綱戦を落とす。大鵬は3敗したが、北玉にはまたも連勝。全勝優勝を阻んで存在感を示した。7月も北の富士。大関、関脇との混戦を制す。大鵬序盤で休場、玉の海は6敗を喫した。

 5場所中4場所を制した北の富士優位で始まった3横綱時代。しかし9月から流れが変わる。玉の海が1年ぶりの優勝。14日目に大鵬を破って優勝を決めるが、北の富士に全勝を阻まれた。これで対北の富士4連敗。11月も玉の海は14連勝、北の富士は2横綱に敗れ脱落したが、1敗で追う大鵬が千秋楽に待ったをかける。14勝1敗同士の決定戦は、玉の海に軍配が上がり連覇。年が変わって46年1月も玉の海が14連勝するが、またも大鵬が待ったをかけ決定戦に。そして今度は水入りの熱戦の末、30歳になっていた大鵬が大逆転優勝。春場所も横綱が強く、終盤まで頑張っていた3大関を退ける。直接対決では玉の海に敗れて脱落した北の富士が、首位並走の大鵬を下す。3場所続けて1差で千秋楽玉の海、大鵬の決戦となるが、この場所は本割で玉の海が雪辱、5度目の優勝。続く夏場所、序盤で2敗した大鵬が突如引退し、3横綱時代に幕が下りた。優勝、準優勝のあと引退は栃錦と同じパターン。大横綱らしい潔い引き際だった。この場所は2横綱が12連勝し、4場所続けて11勝に終わっていた北の富士が全勝優勝。イレブン横綱の汚名を返上して3横綱時代を締めくくり、大鵬なきあとも相撲界は盤石と誰もが安心した。

 

②昭和63年1月(3月)~平成2年7月(千代の富士、北勝海、大乃国)  昭和から平成への移行期、土俵には3人の北海道出身横綱が君臨していた。2人は九重部屋で対戦がなく、大乃国と両者という2カードしかない点で特異な変則3横綱。この2年半は横綱としてはかなり高齢の千代の富士が、数々の大記録を打ち立てた時期にあたる。双葉山に次ぐ昭和以降2位の53連勝、7度目の全勝優勝、角界初の国民栄誉賞受賞、史上初の通算一千勝。愛児を亡くした場所で数珠を下げて土俵に臨み、初の同部屋横綱による決定戦を制して劇的な優勝を遂げるなど記憶にも残る土俵の主役だった。一方で、大乃国は逆転優勝と連勝ストップ、北勝海は3場所連続休場明けの復活優勝などそれぞれに見せ場があり、総じて話題性の多い3横綱時代だったと言える。

 幕開けは突然だった。62年の暮れに横綱双羽黒が失踪事件などで廃業となる。九州で13勝した未完の大器が突然消え、何ともネガティブな形で3横綱となる。新世代の旗手を失ったものの、1月場所は大関2場所目の旭富士が制す。大関小錦も両横綱を破って13勝と健闘。翌3月場所、千代の富士全休の穴を2横綱が埋め、千秋楽本割、決定戦と大乃国が北勝海を連覇して逆転優勝を飾る。若い両横綱が頑張り、旭富士も横綱への望みをつなぐなど千代の富士時代から次世代への以降が始まったかに思われた。

 しかし、翌場所以降一気に時代は逆流する(結果的に、世代交代を成し遂げるのは、この63年春に入門した黄金世代だったという皮肉!)。夏、休場明けの千代の富士が、逆転優勝で横綱を狙う旭富士を下して優勝。北勝海は14日目に故障発生。意外な重傷で年内の復帰叶わず。千代の富士は連勝街道をひた走り、大乃国は優勝を争うに至らず。名古屋以外、千代の富士を追う一番手は大関の旭富士だった。他の3大関、小錦、北天佑、朝潮は不振で対抗馬となりえず。63年九州、14日目で優勝を決め、あとは54連勝目を決めて初場所に双葉山の記録を窺うかと、みな気持ちが翌年に向きかけていた千秋楽、大乃国が千代の富士を下し、連勝を止めたのである。自分も横綱だと意地を見せつけた。

 64年の初場所は直前の天皇崩御で一日遅れの平成元年初場所となる。4場所ぶり復帰の北勝海と旭富士が全勝、千代の富士と大乃国は2敗で追う。大乃国は旭富士を倒すが北勝海との直接対決には敗れて脱落。連勝の疲れが出たか千代の富士も5連覇が消えた。最後は決定戦となり北勝海が旭富士に本割の雪辱、苦しいリハビリを乗り越えて奇跡の復活優勝を果たした。

 春は上位6人が全勝で折り返す史上初の好展開、潰し合いの末14日目に2敗大乃国を投げ捨てた千代の富士が優勝。しかしこの一番で肩を脱臼、千秋楽休場の異例の事態となった。終盤の連敗で失望させた2横綱だったが、千代不在の夏は頑張る1敗力士4人の混戦から大乃国が2大関を退けるが、千秋楽北勝海戦、勝った方が決定戦進出の相星決戦では完全な誤審で敗退。結局北勝海が旭富士との再戦を制して優勝。

   すると、不運に泣いた大乃国は翌場所から受難の時期に。名古屋不振で途中休場、秋には序盤3連敗から立ち直るも終盤4連敗してまさかの負け越し。横綱の皆勤負け越しは安芸ノ海以来、15日制で初めてという不名誉な記録で、引退届を提出するも慰留された。休場を挟んで2年初場所に復活を賭けるが8勝に終わり、さらに千秋楽に足首を骨折、当時横綱ワーストの4連続全休と不振を極める。千代の富士は同部屋決戦を制して復活、秋は全勝、2年初場所で30回目の優勝と衰え知らず。北勝海は「イレブン横綱」状態だったが、春場所に伝説の巴戦を制し6回目の優勝を果たした。

 2年夏、名古屋は復調した大関旭富士が連覇。横綱昇進となり、ついに3横綱時代は終わる。この間、千代の富士は抜けていたが、これに続くのは多くの場所で大関旭富士。3横綱時代最初の場所で優勝して以来苦節2年半。63年には年間最多勝も獲得。もっと早く横綱になってしかるべき実力を持ちながら、勝負どころの3横綱との対戦で大事な星を落として準優勝どまりが続き、横綱への道は遠かった。次の横綱候補を跳ね返し続けたという点では、3横綱は厚い壁となって役割を果たしたと言えるだろう。

 

③昭和34年5月~昭和35年5月(栃錦、若乃花、朝潮)

 実力派大関として活躍していた朝汐。33年九州場所を制し、34年初場所は11勝だったが、春場所は大阪太郎の真価を発揮し両横綱を倒して13勝2敗の準優勝の活躍。横綱に推挙された。初場所に千代の山が引退したばかりだったが、再び3横綱の時代がやってきた。デビューの夏場所は若乃花を破るが10勝に終わり、栃若14勝の決定戦の後塵を拝する。以降3場所連続全休と存在感を失う。その間に栃若は充実。栃が全勝すれば、翌場所若が1差の決戦を制し14勝で優勝。若羽黒に競り負けることもあったが、ほぼ交互に優勝。35年春には朝汐が不振で途中休場するのを尻目に史上初の横綱楽日全勝決戦を戦った。ところが、朝汐の復活を待たずに3横綱時代は突然終わる。翌場所栃錦が初日から連敗するとあっけなく引退した。まさに桜の花の散るが如く。

 すでに柏鵬がもの凄い勢いで伸びて来ている時代。すでに3横綱とも30歳を超えていた。結局、一番若い朝汐が不振続きでこの一年間横綱らしい成績を残せず、11勝が最高。完全に栃若一騎打ちの時代だった。朝汐の名誉のために、その後若乃花との2横綱となった1年余りの間に優勝も果たし、柏鵬に対し一定の壁となったことを述べておく。

 

④昭和56年9月~昭和58年1月(北の湖、若乃花、千代の富士)/昭和58年9月~昭和60年1月(北の湖、千代の富士、隆の里) 

 80年代は、主に3横綱が君臨する時代だった。そのうち昭和50年代後半は、大横綱北の湖、新鋭千代の富士の2横綱に、前期は二代若乃花、後期は隆の里という同部屋同期の横綱が入れ替わりに綱を張った。若乃花が横綱昇進したのは昭和53年、このころが全盛期で、56年に千代の富士が昇進した後は急速に衰えてしまった。対して隆の里は糖尿病などで十両に陥落するなど大きく遅れを取っていたが、57年に大関、若乃花引退後の58年9月に30歳で横綱に昇進した。間3場所を挟んで長く3横綱時代が保たれた時代を紹介する。 

 昭和49年の昇進後、北の湖は優勝20回を記録し王者の地位を不動のものとしていた。ライバル輪島を初め、三重ノ海、貴ノ花、増位山と上位陣が次々引退したが、まだ27歳の横綱に世代交代は無縁であった。同い年の若乃花は、56年に入り不振。変わって千代の富士が毎場所北の湖と優勝を争い、秋には横綱に上り詰めた。こうして始まった3横綱時代、秋場所、心配は3場所連続休場中の若乃花だったが何とか11勝にまとめる。北の湖はヒザの不調で10勝止まり、新横綱は2日目に足首を故障しあっけなく休場。何とも不安なスタートとなった。九州では、若乃花はまた全休、北の湖は場所中ヒザが悪化し初めての休場、連続勝ち越しは50場所でストップ。休場明けの千代の富士も3敗と不調ながら混戦を制して何とか面目を保った。大関が新大関琴風一人という時代、「横綱大関」として文字通り屋台骨を支える3横綱の負担は大きかったが、ちょうど3人ともケガで不調期に入ってしまった。

 57年、初・春と千代の富士と北の湖が千秋楽決戦を戦い優勝を分け合う。しかし夏場所、北の湖が左足首を痛め途中休場。足腰の不安を抱えて長期低迷期を迎える。その間隙をついて大関が次々と誕生する。57年は調子の上がらない2横綱に対し、千代の富士が4回の優勝。まだ大関らに星を落とす場面が目立ったが、北の湖から主役の座を奪った。

 58年、初場所で若乃花が引退。まだ29歳だったが、不調からの復活ならず。北の湖も休場が続き力士生命の危機。千代の富士は肩の脱臼にも怯まず安定していたが、それ以上に隆の里が台頭。春は全勝した千代の富士に苦杯を嘗めたが、以降毎場所千秋楽まで優勝を争う。名古屋の相星決戦で千代の富士を破り横綱昇進を決めると、翌場所の全勝決戦も制して新横綱全勝V。九州場所は北の湖や大関陣も優勝争いに加わっていたが、やはり2横綱が抜け出して相星決戦となり、ようやく千代の富士が隆の里に雪辱。しかし、59年の初場所は隆の里がまたもキラーぶりを発揮。4場所連続の千秋楽相星決戦を戦った千代ー隆の2強時代だった。だが、隆の里はこれが最後の優勝となる。以降は10勝程度の平凡な成績にとどまる。

 千代の富士も不調に陥る。その間に力をつけた若嶋津が全勝を含む2度の優勝で横綱を窺ったが、秋場所では平幕の小錦、多賀竜を止められず夢は潰えた。夏場所は、北の湖が劇的な復活、全勝優勝を果たしたが、最後の輝きとなった。千代の富士が1年ぶりに優勝して締めくくった九州は、北、隆ともに途中休場。千代の富士が不振から脱出したこの場所が、千代の富士一強時代の幕開けとなった。

 新国技館開館の60年初場所、連敗した北の湖は遂に引退を表明。10年半守った横綱の座を退いた。3横綱の一角となった最後の5年は苦しんだが、前年の復活優勝で存在感を示した。隆の里も以降皆勤は1場所だけで、1年後に引退する。

 3横綱時代と言いながら、実質的には2横綱が激しく競り合うか、3人共に不調で関脇・大関に花を持たせることも多く、番付通りの3強の構図はほとんど見られなかった。琴風、朝潮、北天佑、若嶋津の大関陣はなかなか強力で横綱を苦しめたが、遂には届かず。最終盤に登場したサンパチ組の北尾、保志、小錦さらには大ノ国や旭富士、逆鉾などが突き上げてきて、彼らに押されるようにして3横綱時代は終焉を迎えた。

 

⑤昭和41年11月(42年1月)~昭和43年3月(柏戸、大鵬、佐田の山) 

 短いながらも皆が優勝した3横綱時代として、この3人の組み合わせがある。4横綱の中から、41年九州で技能横綱栃ノ海が引退。この場所を全勝で制した大鵬は、1月も全勝で2度目の6連覇。1月は佐田の山も全勝で並走していたが14日目の直接対決で敗れて14勝1敗。全勝阻止を狙った柏戸も叶わず。春は柏戸がつけた黒星が響いて連覇が途絶えた大鵬だが、夏・秋を圧倒的な強さで制す。柏戸、佐田の山も懸命に追うものの大鵬の牙城は崩れない。

 大鵬が休場した場所では両横綱が力を発揮、名古屋を柏戸が、九州と43年初場所を佐田の山が連覇。しっかり穴を埋めて、北の富士、玉の海らに付け入るスキを与えない。しかし、連覇翌場所の43年春に突然佐田の山が引退し、あっけない幕切れを迎える。柏戸に衰えが見え、大鵬が故障で長期休場中だけにダメージが大きかったが、引退説も囁かれた大鵬は復帰場所から45連勝の大記録を残すことになる。大鵬独走と位置づけられる時代の一部分だが、しっかりと他の横綱が補完して土俵を締めていた。1トップ2シャドーとでもいうべき3横綱の時代だった。

 

⑥昭和48年7月~昭和49年7月(北の富士、琴櫻、輪島) 

 1年間続いたベテラン2人に新時代の星が加わった個性的な3横綱。48年はこの3人で優勝を分け合っているから、当初はそこそこのバランスを保っていたと言える。初場所を制した大関琴櫻が史上最多在位場所数にして横綱昇進。春は北の富士が10回目の優勝。この場所、大関輪島は13勝、琴櫻は北の富士の全勝を阻止。夏、大関輪島が全勝優勝して学生相撲出身初の綱取りに成功。ここに3横綱の時代が幕を開ける。

   名古屋では、琴櫻が横綱として初の賜杯を手にする。北の富士に全勝を止められたが、14勝同士の決定戦では見事な左のどわで雪辱。新横綱はベテラン2横綱に敗れて脱落したが、秋・九州と13日目に優勝を決めてしまう独走で連覇。徐々に時代をリードし始めた。

    49年に入ると世代交代の波が押し寄せる。弱冠20歳の北の湖が初優勝すると、以後輪島と交互に賜杯を分け合う。対して2横綱は苦しく、共に途中休場のスタートから、琴櫻は春場所危うく負け越すほどの不振、夏も3連敗で休場。北の富士は連続全休。共に進退は名古屋へ持ち越したが、琴櫻は場所前に、北の富士は初日から連敗して引退を発表した。入れ替って場所後、2人より10歳以上若い北の湖が史上最年少横綱に昇進。

 時代の過渡期に生まれた3横綱時代。ある程度予想された展開とはいえ、急激に2横綱が衰退して3横綱の競り合いはほとんど見られなかったが、新横綱に洗礼を浴びせて先輩横綱で決定戦を戦ったあたりに老兵の意地が感じられる。

4横綱時代

 同時に存在した横綱の最多人数は4人。上限というわけではないが、かなり多いという印象だ。有難い手数入りも4回も続けて見せらたら少々満腹気味になる。中入り前が間延びしてしまう。また、そもそもいくら横綱でも、4人が揃って終盤まで優勝を争うのは難しく、揃って皆勤した例は少ない。③の時代に「4横綱リーグ戦」のキャッチコピーで瞬間的に盛り上がったくらいだ。

 4横綱期間も最長で14場所。陥落のない横綱は休場という手で延命もできるが、他に3人も横綱がいる中で一度狂った歯車を戻すのは困難で、早々に誰かが引退に追い込まれるパターンが多い(3人目に上がった横綱が最初に辞めることが多い。最古参の千代の富士が最初だった②も、その翌場所3人目の大乃国が引退。)。

 そもそも横綱が4人になるのが珍しく、29年初場所で稀勢の里が昇進して4横綱となったのが18年ぶりとあって注目された。昇進後10年を迎える白鵬に5年間張り合ってきた日馬富士、さらに26年鶴竜、そして29年稀勢と新横綱が加わった。好敵手と呼ばれる2人の長期政権に、立て続けに横綱が加わることで完成することが多かった4横綱体制。今回のケースは一人横綱白鵬の後に3人がそれなりの間隔で昇進している点で珍しい。千代の富士が一人横綱を経て2組の4横綱時代を経験したのと似たケースである。

 

 ところで、4横綱を超える5横綱に一番近かった時代は?戦後間もなくは横綱が乱立気味で、4横綱になることが多かった。入れ替わりに4横綱時代が続くこともあり、その頃にあわや5横綱という場面も生まれている。東富士が、栃錦の昇進を妨げないよう身を引いたとする説もある。初代若乃花幹士の昇進時にも4横綱のうち2横綱が引退している。それ以降は4横綱となることが稀で、そこにさらに5人目となる横綱候補が出たことはない。あえていえば、63年初場所で大関旭富士が優勝したが、この場所は廃業した双羽黒が残っており番付上は4横綱。もし双羽黒が去らなければ、翌春場所は混戦になり、実際は1差に終わった旭富士にチャンスが巡ってきて連覇し、あるいは5横綱になったかもしれない。平成29年の4横綱時代は、開始時点でみな30代の高齢ぶり。誰が引退に追い込まれるのか、それとも史上初めて第5の横綱が誕生するのか。どのように幕が降ろされるのかも注目だ。

①平成11年7月~平成12年3月(曙、貴乃花、若乃花、武蔵丸) 

 長く続いた2横綱の時代。ところが、曙は10、11年、貴乃花は11年、12年と優勝なし。両横綱の不調期に、5年ほど大関で足踏みしていた若乃花、武蔵丸が横綱に昇進する。だが、この4横綱がサバイバルで優勝を争うような展開には一度もならず、千秋楽での揃い踏みすらなかった。年齢的には曙30歳を筆頭に、大横綱貴乃花はまだ26歳とまだ油の乗った年代の4横綱だったが、若い頃から大舞台で戦ってきた疲労からか、いささか消耗していた。武蔵丸が新横綱の場所は、若乃花が全休、貴乃花が9勝に終わり、曙が復活優勝に向けて走っていたが千秋楽関脇出島に逆転された。秋は初日こそ4横綱の土俵入りが見られたが、曙貴が序盤で休場、若乃花は負傷するも休場勧告を無視して強行出場を続けて、千秋楽優勝のかかった武蔵丸に敗れて負け越し。若乃花の引退は回避されたが、故障で長期休場へ。曙若が全休した九州では、貴乃花がやや復調し3敗同士で武蔵丸との相星決戦。武蔵丸の怪腕が返り討ちにした。武蔵丸は成績こそいまひとつだが、この年4回目の優勝で実力NO.1の座にあることを顕示した。

 ところが、12年初場所は55場所連続勝ち越しの不沈艦・武蔵丸まで休場してしまい、久しぶりの曙貴2横綱となったが、共に3敗で千秋楽。先に関脇武双山に優勝を決められ、消化試合となった。春場所、進退かけて強行出場してきた若乃花だが、序盤で黒星が先行し引退。残った3横綱もピリっとせず、貴闘力に平幕優勝を許した。

 4横綱がいながら、優勝したのは武蔵丸だけで、関脇2人や幕尻にまで優勝を攫われ、不甲斐なかった。4横綱となる前後の3横綱時代も、休場が多く三つ巴の複雑な優勝争いになることはなく、それぞれの一騎打ちか、1人の独走となった。以前の2横綱3大関時代の方がよっぽど安定しており、4横綱と言えども前時代よりかなりレベルが下がって、横綱大関関脇がフラットな関係になった時代と言えよう。


②平成2年9月~平成3年5月(千代の富士、北勝海、大乃国、旭富士)

 天敵千代の富士を倒してようやく頂点を極めた旭富士。上記の3横綱時代に書いたように、実質的には北勝海、大乃国以上の安定感を誇った大関が、念願成就してようやく番付が実力に追いついた形。しかし、4横綱が盤石だったかというと、スタートから不安要素はあった。35歳の千代の富士は初場所以来優勝から遠ざかりこの場所全休。連覇して昇進の旭富士とて、その前5場所は一桁勝利と不振明け。膵臓炎の不安はつきまとい、年齢的にも30歳と高齢。大乃国は横綱ワースト4連続全休中。北勝海も2場所連続10勝どまりだった。

 長く大関を務めた北天佑が突然引退した秋場所、優勝を争ったのは、新横綱の旭富士と北勝海、カド番大関霧島。横綱同士の楽日相星決戦となり、先輩横綱が貫禄を示して3連覇を阻止。九州では千代の富士が復活。1差の旭富士はまたも直接対決で九重勢に苦汁を嘗めさせられた。この場所で大乃国が復帰、苦しみながらも北勝海、千代の富士を倒して10勝に乗せ、引退危機をひとまず乗り切った。初場所は千代の富士が序盤で負傷休場、いよいよ体力の限界が近づいていた。残る3横綱も新勢力に取りこぼし、難敵を捌き切った大関霧島が、3横綱を将棋倒しにして初優勝。横綱同士が潰し合って後退した。春も千代の富士は全休。貴花田が11連勝の快進撃だったが、小錦、旭富士に止められた。優勝争いは復調した大乃国を、北勝海が14日目1敗同士の決戦で下して逃げ切った。ところが、翌夏場所ではこの両雄が全休。そして千代の富士が引退した。一人横綱になった旭富士が小錦を猛追し、千秋楽逆転で待望の横綱昇進後初優勝。最年長の最強横綱が引退して、ここ数場所の優勝を争った3横綱、そして大関陣が、ようやく彼ら世代の時代を作っていくかに思われたが...

 

③昭和54年9月~昭和55年11月(輪島、北の湖、若乃花、三重ノ海)

 長く続いた輪湖2横綱時代。ここに2横綱が加わって迎えた4横綱時代は、各力士なかなか充実。一番新しい横綱が44年新入幕の最古参・三重ノ海とあって、ロートル化した横綱もいない。もちろん53年に年間最多勝記録を更新した北の湖の優位は動かなかったが、終盤の横綱リーグ戦で激しく競り合う優勝争いは見ごたえがあった。

 ここでは、「3横綱時代」で取り上げなかった輪島、北の湖、若乃花のトリオの時代から振り返る。51,52年は輪湖がっぷり四つの完全二強時代が展開。53年は前述の通り北の湖が君臨。意外にも横綱になって3年半、連覇のなかった不沈艦だが、この年初場所から5連覇を果たした。一方の輪島は10勝、途中休場、9勝。30歳となり限界説も流れる不振がこれを後押しした。しかし、優勝争いは簡単ではなく、毎場所大関の若三杉が対抗。初場所は1差対決に敗れて13勝、春も13勝で決定戦進出、夏にも先場所に続いて北の湖に土をつけ14勝。またもや決定戦で涙を飲んだが、抜群の安定感で横綱に推挙された。3横綱になった名古屋は輪島が復調するが、北の湖との全勝対決で敗れる。秋場所は若乃花が追い上げるが千秋楽決戦で北の湖が突き放し五連覇達成。九州は全勝の2横綱を北の湖が1敗で追う展開となるが、若乃花が直接対決を勝ち抜いて全勝優勝、北の湖は最終盤でまさかの3連敗。54年になっても3横綱は安定していたが、大関陣に異変。前年から貴ノ花、旭國は勝ち越しが精一杯、三重ノ海は10勝前後という冴えない古参大関陣だったが、三重ノ海が地力を増し、夏は横綱陣と共に優勝争いに残り13勝。そして名古屋は3横綱を総なめ。千秋楽に全勝輪島を破って決定戦に持ち込む14勝の活躍で、31歳にして横綱に昇進した。 

 前置きが長くなったが、ここに13年ぶりの4横綱時代が実現。横綱が強い時代に実力派大関が優勝こそ出来なかったが2人割り込んだ形。豪華番付に違わぬ期待通りの優勝争いが展開された。

    幕開けの秋場所は、4横綱とも終盤までに星を落として3横綱が2敗、新横綱三重ノ海は4敗である。2敗勢はトップに立っており、大崩れはしていないが、横綱が4人もいるから「金星のバーゲンセール」状態である。年に数回しか金星を渡さない朝青龍、白鵬の時代に比べれば、幕内上位の実力者にとっては天国とも言える4横綱時代。この場所では巨砲と三杉磯が2つずつ金星を奪った。10日目には早くも横綱戦が組まれ、北の湖が三重ノ海を脱落させた。これを皮切りに今度は「横綱対決のバーゲン」となる。まず2敗対決、北の湖が若乃花を破る。その若乃花が翌日輪島を3敗に引きずり込む。1差で追う立場となった2横綱に引導を渡したのは、真っ先に脱落した4敗三重ノ海だった。こうして取りこぼしのあった北の湖は、横綱戦を全勝、他の潰し合いにも救われて千秋楽の割を待たずに優勝決定。この場所中、旭國が引退。当時三役には玉ノ富士、増位山、富士桜、麒麟児、栃赤城、隆の里あたりが行ったり来たりしており、次の大関が見当たらない。

   4横綱1大関のアンバランスな番付で迎えた九州は、4横綱とも前半1敗で切り抜け、中日に早くも組まれた直接対決は三重ノ海が輪島を下す。黒星先行の一人大関貴ノ花が存在感を発揮して2横綱を連破、敗れた輪島、北の湖は大きく後退し、三重ノ海と若乃花が1敗で並走する展開に。迎えた14日目の決戦を制したのは三重ノ海。千秋楽も北の湖を破って関脇時代以来4年ぶりの賜杯を手にした。54年は北の湖77勝13敗優勝3、三重ノ海73勝17敗優勝1(大関4場所)、若乃花71勝19敗優勝1、輪島68勝22敗優勝1。4人とも皆勤して平均12勝前後の好成績を残し、優勝を分けあった。

 明けて55年、輪島が序盤で休場して3横綱の争い。全勝三重ノ海を2敗で2横綱と関脇増位山が追ったが、13日目の大一番で三重ノ海が北の湖を退けて勝負有り。連続優勝を決めると、初の全勝も記録した。ベテラン三重ノ海の勢いが凄まじかったが、春場所千代の富士に23連勝で止められると、3連敗で途中休場。以後皆勤は夏場所の10勝のみ。肩を痛めて急に燃え尽きた。

    最後の4横綱リーグ戦が行われた夏場所。この場所は4横綱決戦を終盤3日間に凝縮した割となった。9日目に北の湖が朝汐に土をつけられた時点では輪島と三重ノ海が並び、1差で若乃花という白熱した展開。そして残り3日。北の湖は決戦前に連敗した三重ノ海を下したが、輪島は若乃花に屈すと3連敗。共に14日目に横綱を退けた北の湖と若乃花が、1差で楽日対決。結果、かつての勝負弱さを克服した北の湖が本割で優勝を決めた。

 名古屋では初日に3横綱が敗れ、2横綱が途中休場。北の湖が全勝で3連覇、優勝を20回に乗せた。秋は接戦となったが、同部屋の貴ノ花、隆の里の援護射撃を追い風に若乃花が抜け出し、最後は2金星の盟友隆の里を振り切った。九州場所、初日から連敗した三重ノ海が引退して4横綱時代は終わる。8日目まで若乃花、輪島とともに新関脇千代の富士が全勝だったが、3横綱が意地を見せて脱落させる。1敗で並んだ千秋楽、若乃花が北の湖に敗れ、大関貴ノ花を下した輪島が8場所ぶり14回目、最後の優勝を飾った。

 1年間、大きな動きがあった。全勝で連覇というこの世の春を迎えた三重ノ海が九州で引退。2度の途中休場、11勝が精一杯だった輪島がその場所を制した。北の湖は優勝するときは強いが、それ以外の3場所は壁になれず。若乃花は安定していたが勝負弱く、優勝一度に留まった。貴ノ花は二桁から遠ざかり、増位山がワンチャンスを活かして大関になったが、九州では3勝12敗と崩れるなど早くも先が見えてきた。飽和状態の横綱に割り込む勢力はなかった。栃赤城、朝汐、琴風が大関に挑むもならず。後半に急激に伸びてきた隆の里、千代の富士が期待を集める。

 4横綱時代は三重ノ海の昇進から引退までの8場所。三重ノ海は連覇を果たしたが皆勤4場所だから、3横綱時代に一瞬の嵐が通り過ぎたと言う方が正しいかもしれない。しかし、4横綱時代としてこの2年間を捉えると、54,55年ともに、4人が横綱として年1回は優勝するという素晴らしい結果を残した。王者北の湖が6回、強みを発揮しながらも他の横綱にも花を持たせた良き時代である。短いながらも華やかだったが、ここに大関が絡まなかったのは残念。30台の三重ノ海、増位山の昇進、輪島の復活優勝で時計の針が一旦戻ったが、世代交代は進んでいた。翌年1月大関貴ノ花、3月輪島、増位山が引退。千代の富士を筆頭に昭和30年代生まれの勢力が急激に伸びてくる。その流れに若乃花、北の湖も呑まれていく。

 

④昭和40年3月~昭和41年11月(柏戸、大鵬、栃ノ海、佐田の山) 

 柏鵬時代と呼ばれた時代は、6連覇も果たした大鵬の独走状態となる。横綱柏戸でさえ止められない無敵の横綱がいて、その下に5大関が控える。一度の優勝も非常に難しい中で、狭き門を破って2人の横綱が誕生した。共に近代相撲界の本流とも言える出羽一門の栃ノ海と佐田の山。その綱取りレースは、「5大関時代」で紹介しているのでその項に譲るが、佐田の山昇進の40年3月から2年近く4横綱が競演した時代があった。

 この時代を語る上で、外せないのが40年1月から導入された部屋別総当たり制である。まだ一門の結束の強かった時代、同門は兄弟弟子同然として共に稽古に励む仲で、本場所で対戦するなど思いもよらなかった。もちろんこれまで実現しなかったカードが見られて土俵は面白くなるが、上位力士にとっては実力者との対戦が増えてたまったものではない。初場所、ライバル横綱栃ノ海(春日野)との初対決を制した大関佐田の山(出羽海)は勢いに乗り、やはり綱取りを争っていた同門栃光(春日野)に土をつけられたが、何とか逃げ切って優勝し、横綱昇進を決めた。この場所柏戸は4場所連続となる休場、栃ノ海は千秋楽大鵬に勝って勝ち越しという危うさ。共に故障がちで不安定な土俵が続いており、4人目の横綱に対する大鵬の対抗馬としての期待は高まった。

 春場所、新横綱佐田の山は期待に応え、大鵬との千秋楽決戦に持ち込むが、天敵に跳ね返される。夏場所、序盤大荒れとなる。佐田、栃が初日に黒星。2日目には3横綱が敗れて全勝消える。大鵬が珍しく乱調で一時3勝4敗と黒星先行。結局長期休場明けの柏戸共々9勝6敗に終わった。栃ノ海は3場所連続8勝7敗の横綱らしからぬ成績。結局黒星スタートのあと全勝した佐田の山が独走して横綱初V。名古屋も佐田の山がトップを走り、休場明け強行出場の大鵬は柏戸に負けて2差がついたが、佐田の山も柏戸に負けて最後は相星決戦。またも天敵大鵬に、佐田の山は優勝をさらわれた。栃ノ海は途中休場。秋も混戦。他の横綱に2差をつけた大鵬だが、3横綱に敗れてリードを吐き出す。3敗4人で迎えた千秋楽、平幕明武谷が勝ち、柏戸が珍しく二桁勝った栃ノ海を下し、佐田の山が大鵬に久しぶりに勝って巴戦進出。柏戸が連勝で復活優勝を果たした。九州は前場所復調したはずの柏戸、栃ノ海がまた途中休場。佐田の山と大鵬が並走したが、佐田の山は不振の大関に連敗して楽日決戦前に脱落した。

 年が変わって41年。栃ノ海はヘルニアで全休、復調した大鵬もヒザの故障で初の全休。さらに佐田の山も終盤休場して、休場明けの柏戸が一人残されたが、ここぞと穴を埋める活躍。平幕勢相手の優勝争い、13日目玉乃島との1敗対決を制して逃げ切った。春も好調を維持した柏戸は一時トップに立つが、好調の大関豊山、栃ノ海に連敗して大鵬の軍門に下った。栃ノ海はこの場所も10勝、存在感を発揮したがこれが最後の輝きとなった。このころ、佐田の山に代わって柏戸がN0.2の実力を発揮。夏もよく大鵬に付いていったが、千秋楽1差対決で苦杯。佐田の山は3連続休場となって心配されたが、名古屋から復調する。大鵬が1差でリード、佐田の山、柏戸と退けて3連覇。秋も大鵬が独走したが、今度は2横綱が意地を見せて縺れさせ、決定戦となるが大鵬が柏戸に逆転は許さず。九州は大鵬が全勝。2横綱は競り合うどころか10勝どまり。そして3場所ぶりの出場で2勝4敗となった栃ノ海が引退を発表。3年間の横綱生活に別れ。

 この4横綱の時代。大鵬もヒザの故障や高血圧が出てどちらかというと不調だった。それでも後半は6連覇を飾るのだが、他の力士にも付け入るスキがあった。佐田の山は安定感があったが、一時連続休場あり、大鵬との相性の悪さはひどく悉く賜杯をさらわれた。柏戸は不安定だったが、横綱戦の強さは健在で、2度の優勝を飾った。栃ノ海は、横綱に勝っていることが特筆されるほどで、腰のヘルニアが悪化して横綱らしい土俵を努められなかった。4横綱時代といいつつ、すべて皆勤は2場所だけ。大抵は2横綱の争いになっている。その脇を固める大関陣も晩年を迎えていて優勝争いに加われない。豊山も横綱には勝っているが成績が平凡。北葉山、栃光は負け越しが目立って引退している。低い成績ながら新大関に推された北玉も明らかに地力不十分で単発の大物喰いが精一杯。以下、清國、大豪、若見山、富士錦、琴櫻、海乃山、長谷川、麒麟児、決定戦にも出た明武谷などがいたが、大関を窺うような成績は残せなかった。

 

⑤昭和30年1月〜33年1月(千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦)

 最長期間を誇る4横綱時代。

 国技館を接収されてジプシー興行を余儀なくされ、開催月も固定できなかった戦後の混乱期。危機的状況に看板力士を増やそうとしたのかどうかはともかく、横綱が4人いるのが普通の時代があった。

 戦中に双葉山、安藝ノ海と4横綱を形成した羽黒山と照國に、前田山、東富士が加わって4横綱となったのが24年春。前田山引退から千代の山昇進までしばらく3横綱となったが、26年秋以降はほぼ4横綱が続く。照國→鏡里、羽黒山→吉葉山(間1場所)と間隙なく入れ替わった。29年秋場所に東富士が引退したが、やはりその場所で優勝した栃錦が昇進。江戸っ子横綱が継承され、また4横綱が維持された。そして、ここから史上最長の4横綱時代が始まる。

 新たな横綱を加えて迎えた昭和30年。大関は三根山一人で頭でっかちな番付だ。連覇を果たした新横綱栃錦は既に29歳。最古参の千代の山が一番若くて28歳、鏡里31歳、吉葉山が34歳。かなりベテラン揃いだ。千代の山ー栃錦のみ同門のため対戦がない。

 前年は4場所とも大関が優勝していたが、全勝優勝での昇進から1年の吉葉山、連覇で昇進した栃錦、新大関優勝の三根山、しばらく優勝から遠ざかる鏡里を退けて千代の山が連続優勝を果たす。2場所とも決定戦になったが、相手は平幕時津山、関脇大内山。夏は復調した栃錦が14日目に優勝決定。千秋楽は伝説の首投げで新大関大内山を破っている。千代の山は後半崩れて8勝。吉葉山は3場所連続の途中休場と苦しんでいる。三根山は連続の負け越しで陥落。大内山の1人大関となる。ここまで途中休場もあるなどパッとしなかった鏡里だが、秋に復活。関脇松登との直接対決を制して逃げ切った。千代の山、関脇若ノ花も1差で並んでいたが、11日目の対決で水入り引き分けを演じ、共に終盤力尽きた(松登、若ノ花は場所後大関昇進)。吉葉山は9勝ながらこの年初の皆勤。栃錦は途中休場に終わった。

 31年初場所は鏡里が平幕鶴ヶ嶺を退け初の連覇。千代の山は怪我で途中休場、吉葉山、栃錦も9勝と本調子には遠く、新大関若ノ花が鏡里に土をつけて追いすがったが届かず。4横綱で死守してきた賜杯だが、31年春ではついに手放す。中盤までは皆まずまずだったが、大関の若ノ花と大内山に対して誰一人勝てず揃って後半失速、二桁勝ったのは吉葉山だけだった。12勝で巴戦になり、大関若ノ花、平幕若羽黒を下した関脇朝潮が初優勝した。夏場所も横綱陣は千代の山しか二桁に乗らず。栃錦は途中休場し、千秋楽結びは7−7の吉葉山が9−5の鏡里を下して辛うじて勝越し。またも12勝の決定戦になり、大関若ノ花が初優勝した。秋場所は綱取りに注目が集まる若ノ花が無傷で走ったが、全休の千代の山を除く3横綱が食い下がる。13日目から3横綱に挑むはずだったが、1敗の鏡里戦に高熱に倒れた若ノ花は不戦敗。栃錦との2敗対決を制した吉葉山が久々に優勝戦線に残ったが、千秋楽1差対決は鏡里が本割で勝ち切って賜杯を奪回。

 横綱カルテットも3年目。全員30代に達している。32年初場所は休場明けの千代の山が復活の全勝。鏡里は途中休場。春は吉葉山が途中休場、残る横綱大関が終盤潰し合って9〜11勝に留まるうち、関脇朝汐に逃げ切られた。夏は大関、関脇、小結が各3人、張出だらけの番付となったが、その一角小結安念山が逃げ切った。千代の山全休、吉葉山途中休場。栃錦が12勝したが届かず。秋は初日3横綱が敗れる波乱。そこから立ち直ったのは栃錦で、追う大関陣を下して逃げ切りに成功。2横綱は14日目に勝越しと奮わず、千代の山は途中休場、不戦敗が8敗目となった。記念すべき初の九州本場所は、栃若の並走となったが、後半潰し合い。その間に14枚目玉乃海が全勝で逃げ切ってしまった。栃錦12勝、吉葉山11勝。千代の山、鏡里は全休。

 そして33年初場所。先場所の覇者を破ってスタートした西横綱吉葉山だが、2日目から3連敗。3場所前の覇者安念山を下し五分としたが、再び連敗したところで引退を発表。ついに横綱として優勝を果たすことはできなかった。東張出横綱の34歳鏡里も、8勝、全休に続く場所。初日から白星先行ながらヌケヌケの星取りで、「10勝できなければ引退する」としていたが、13日目若乃花に敗れて6敗目。そこから優勝圏内の千代の山と栃錦を連破するが、公約通り引退した。2横綱が引退したこの場所、2横綱との優勝争いを制して優勝した大関若乃花の横綱昇進が決まった。以降、千代の山は休場がちになり、栃若二強の時代がやってくる。


 平幕が20枚以上あるのに、勝ちこんでも上位陣と当てられないため、決定戦進出者が多く、玉乃海の全勝優勝もあった。4横綱が終盤潰し合ってその後塵を拝することも多かった。一方で、途中休場や一桁の勝ち越しに終わってもそんなに目立たず、調子を上げるまでの猶予があったようにも思える。

 短命の不知火型の代表格のように言われる吉葉山も、37歳まで4年も在位しており十分長持ち。優勝を争えたのはわずかだが、クビがつながるだけの成績は残し、引退場所は西正横綱だった。この4横綱の3年間、優勝回数は、千代の山3回、鏡里3回。一番勢いのあるはずの栃錦は2回に留まっている。ほかに大関の若乃花、関脇朝潮2回。5人が複数回数を記録し、拮抗している。全勝は平幕玉乃海しかなく、12勝程度に終わることも多い。まれに見る混戦模様で、優勝予想が難しい、面白い時代だったと思われる。大関は若乃花を除いて活躍が少なく、三根山、大内山、松登が昇進してはすぐに陥落した。突き上げは激しくなかった。

 すでにベテランの域にあり、順繰りに休場して決して素晴らしい成績ではなかった4横綱だったが、誰も飛び抜けていなかった分、うまくカバーしあって全体としてよく踏ん張ったという評価は与えられると思う。実際に仲も良かったようだ。


 

まとめ 横綱の時代